【69再録】日溜まりの部屋で

 誰かに呼ばれたような気がして、蔵馬はふと、ひとりの部屋で顔を上げた。夕暮れ時だ。窓の外では空が昼の青を糧にあかあかと燃えている。燃え尽きた空の端からしなやかな月が萌え出でる。

 この頃合になると蔵馬はいつも、その名を呼ばれた気がしてしまう。ひとつは逢魔が時のさなかであること。胸の中で銀色の魔がチリチリと胸を焦がすから。そしてひとつはあのひとが来るから。あのひとはいつも、あのドアを開けたとき、蔵馬、と嬉しげに彼の名を呼ぶから。

 薄暗いので電灯をつけて、蔵馬は再び椅子に腰かける。先刻そうしていたとおりに、参考書に目を落とす。その本はまるで得体の知れない数字と文字の羅列。何度目を通したかはもう分からない。けれどていねいな解説付きの公式は、ただまつげの前を素通りしてゆくだけだ。ちっとも頭に入りゃしない。ページの最後まで読んだかと思うとまた、最初を読んでいる。進まないページ。心はさながら上の空だ。

 最近、本屋に行っていないなあ。数字の羅列の合間に、蔵馬は素通しの眼鏡をずり上げる。そろそろ新しい文庫だってたくさん店頭に並んでいるはずだ。学校帰りにでも寄ってくれば良かったなあ。……しかし蔵馬の足は本屋の前を素通りして、まっすぐにスーパーの自動ドアをくぐってしまったのである。必要なものを買い込んで、こんなものかなと思ったときにはもう、自宅に向かっていた。夕食の下ごしらえはとっくに終わってしまっている。あとは時間を見計らって火にかけるばかり。その頃合までの空白の時間を、きのうも一昨日(おとつい)もその前も、蔵馬は持て余していたはずなのに。

 本屋に行こうと思ったのは、きのうも一昨日もその前も同じだ。静かなジャズの流れるマンションの一室は、蔵馬ひとりが参考書なぞを眺めて暇をつぶすにはあまりに広くて、蔵馬はこの時間を持て余す。夕刻だというのがなおいけない。今は去っていった陽を偲んで月が嗚咽するとき。その冷たい涙が涸れるとき、夜はしっとりと重く浄い潤いを帯びる。

 なんだか手足がうずくようだ。いてもたってもいられないような気分になって時計を見上げる。待ち人のせつなさをこんなときいっそう思い知る。独りの時間がこんなに、淋しい、なんて。気付くといつしか目をすがめている。まだ、来ない。

 蔵馬は突然立ち上がる。だて眼鏡をむしり取り、急きこむように上着を着る。本屋に行ってこようと思う。彼がいない間にあのひとはここにやってくるかもしれないけれど、待たせておけば良いのだ。そうすればあのひとも蔵馬の心の一端を知る。彼にはこの孤独の重圧を、甘んじて受け止める必要など無いのだ。部屋を彩るたくさんの植物たちが吐き出す空気は涼やかに澄んでいるけれど、蔵馬はこの空気が好きだけれど、もうこの中にはいられない。

 ノブに手を掛けた途端にドアが開いた。すぐさまひとりの男の顔が現れ、そのひとはきょとんと目を丸める。

「あれ。どっか行くの」

 幽助は屈託なく問うた。彼はやはり素っ頓狂に目を丸めている蔵馬をじっと見つめて、苦いように笑った。

「ごめん。今日はちっと遅刻だな」ぬけぬけと言ったかと思うと、幽助は素速く蔵馬の唇に唇で触れる。蔵馬はあきれて肩をすくめる。

 このひともいつの間にか狡賢くなったものだ。キスで蔵馬をなだめようとしている。それに気付いて肩を落とす、キスのひとつであやされている。

「ごめんなくーちゃん。けど、はい」

 幽助は抱えていたものを蔵馬に渡した。薔薇の花束だった。

「……何これ」

「駅前歩いてたら売ってた。きれいだったから、買ってきた」

 幽助はなんでもないことのように言った。けれどきっとそれだけでは済まないことぐらいは容易に想像がつく。美しく形の整った真紅のハイブリッドティーの一本一本を、花屋の店先で幽助は時間をかけて選んだのであろう。店員の女の子たちに笑われながらも、真っ赤になりながらも。

 蔵馬はいよいよあきれた。いつまでも成長しない悪ガキのような顔をしていながら、このひとはいつの間に、なんでもない日に贈る花束の効果を知ったのだろうか!

 花束をかかえて為す術もなく立ちつくしている蔵馬の前で、幽助はくつくつ笑った。「蔵馬ってさあ、やっぱあんまし赤いバラ似合わねーよなあ」

「……そお?」

「うん。おまえっておまえが思ってるほどハデじゃねーもん」

「……なのにプレゼントは赤い薔薇なの?」

「そ」

「…………ふうん」

 蔵馬は靴を脱ぎ捨てた。今日はもう、本屋には行けそうにない。

 スタスタと奥に去ってゆく蔵馬を幽助が慌てて追いかける。横に並ぶついでにさりげなく腰に手を回すあたりが、かなり気障だなあと思うのであるが。

「な。どっか行くんじゃねーの?」と問うた幽助はまるで、どこだってお供しますよとちぎれんばかりに尻尾を振るむく犬だ。そのくせ、その口許はどこかしら賢しげに笑んでいるのだ。

 蔵馬は放り投げるように言った。「やめたよ」

「なんで?」

 蔵馬がふいと立ち止まり、続いて幽助も足を止める。なんで止まるんだ? と今にも問いたげな幽助の唇に蔵馬は自分のそれを重ねた。幽助は驚いたようだったが、唇を開いた蔵馬にすぐに応じてスルリと舌をすべり込ませてくる。蔵馬は目を閉じる。柔らかなものが口腔内を蠢きまわる感触が鮮やかだ。目はけして開けない。心地良すぎるゆえではない。すぐそばにあるこの存在感が、熱すぎるからだ。眩しすぎるからだ。幽助は時に地上に降りた太陽のように感じられる。彼の腕はいつしか蔵馬を抱きしめていて、夜を孕んだ花の香が間近で香り、ああ、このひとに巻き込まれてゆく、と蔵馬は静かに思う。

「だから、出ていくのはやめたんだ」と、唇が離れた途端、蔵馬は呟いた。

「……へ?」

 蔵馬は指の先でそっと自分の唇を弾き、「だって、あなたが離してくれそうにないじゃないか」

 幽助の頬はきっと赤く染まったろう。けれど蔵馬はそれを見ず、ただくるりと背を向けた。彼はあんまり無防備だ。これ以上、弱みを握るわけにはいかないというのに。

 抱えた薔薇が馥郁と薫った。これにちょうど良い花瓶はあったろうかと蔵馬は思案する。「くらまぁ」足音を立てて追ってくる人がいる。薔薇のうえにこのひとまでが居たら、部屋はきっと陽のにおいと花のにおいとが満ちるのだろう。夜のせつなさすら掻き消して。香ばしく乱れあったにおい達は蔵馬の意識をこの部屋に縫い止める。

 明日こそは本屋に行こうと思うのだけれど。



 

〈了〉

1998年初出


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