【69再録】小夜曲
「ああ。月がでたね」
呟いたかと思うと蔵馬は、ふいと幽助の腕から抜け出してテラスへと出ていった。ぽっかりと淋しくなった腕の中が物足りなくて、幽助はおかしいなあ、と首をひねる。あんなにしっかりと捕まえてあったはずなのに、と。なのに蔵馬はいつだって、スルリと幽助のそばを抜け出してゆく。幽助の腕などを蔵馬はものともしない。蔵馬に抜け出されると、幽助は、抱きしめていたメレンゲ菓子のようにふんわり柔らかくてあったかい生き物が、いつしか空気に溶けだしてしまったような虚ろな気分になるのだ。彼はこんなにも蔵馬を抱きしめているのが好きだというのに、あるいは蔵馬はそれを知らない。
「幽助おいでよ。みごとな満月だよ」
開け放した窓の外から蔵馬の声が彼を呼んだ。先刻からどんよりと重苦しく曇っていた空がようやく回復したのだろう、蔵馬の台詞は蔵馬そのひとをよく知るものが聞いてのみそれと分かるほどの、わずかな喜色を帯びている。しかし幽助は呼び声には応じない。ここで尻尾を振ってほいほい蔵馬の横に行くようでは、蔵馬のオトコはつとまらないのだ。蔵馬は月が好きである。月を静かに眺めるのが好きである。ゆえにひとりで月を見上げることが好きなのである。
幽助は返事も返さずに部屋を出た。蔵馬がひとりで月を見上げ始めたら、幽助は酒でもかっくらって蔵馬が自分を求めてくるのを待つしかない。何を飲もうか、彼は思案する。皮肉を込めてシャンパンでも開けてやろうか、などと。
キッチンの片隅でひとりシャンパンを呷るなんて、とてもせつない構図だ。そうでなくとも幽助はとうにせつなくなっているのに。蔵馬にとって自分がまだ、(蔵馬のプライベートに於いて)蔵馬のとなりに立ってはいけない存在だと思い知っているからだ。
幽助はここのところ蔵馬さん宅に入り浸っている。蔵馬のそばにいる間、幽助の目は蔵馬以外を映しはしないというのに、蔵馬の目にはめまぐるしいように幽助でないものが入り込む。幽助の目には月などけして映らない。月の下で彼の視線が捉え得るのは、月光につややかに照らされた長い髪。白い頬。それ以外にあろうか。
ああ。蔵馬を抱き寄せたい。あの白い頚に歯を立てたい。……そうすると蔵馬の瞳は虚ろに潤む。そのとき彼の漆黒の双眸を占めるのは、ただひとり、幽助の面影ばかりだ。
寂しいくせにサカってる。あの白い花の群生に深々と体を埋めたがっている。
普通の人間ならば聞き逃すであろう軽快な足音を幽助は聞いた。開いたドアを見やって彼はあきれた。蔵馬は先刻そうであったとおり、素っ裸だった。
けれど蔵馬は裸体のどこをも隠すことはなく、ずかずかと歩み寄ってきて幽助の隣りにすとんと腰を下ろす。その目許口許は企むように細く歪んでいた。ふうわりと甘く涼やかな香りが薫り、ああ、白い花だ、と思う。蔵馬は幽助の耳許に秘密めかして囁き尋ねた。
「どうして、呼んだのに来なかったの?」
おや、台詞は拗ねている。なのに口調は笑っているのだ。蔵馬の感情表現はいつも幽助には難解極まりない。
幽助が答えあぐねているすきに、蔵馬はテーブルの上からシャンパンのボトルを連れ去った。部屋を出て行くその白い背が、早くおいでと催促しているようで、幽助は慌てて彼を追う。白い首筋は目の前だ。
蔵馬は再びテラスへ出た。白い月は煌々と輝いている。夜空は青ざめて澄み渡り、夜明けの太陽の息吹をひっそりと待ち尽くしている。幽助は蔵馬の背中をじっと見つめた。蔵馬は酒をボトルごとラッパ飲みした。髪が背をうねった。近寄りがたいほどに美しいひとだと思っていた。
「どうしてこちらに来ないの?」
ふいに蔵馬は振り向いた。黒曜の瞳には幽助が映る。幽助はドキリとした。蔵馬の瞳の中で、自分は白い花に心を奪われた情けない男以上ではなかった。しかし蔵馬は笑ってはいなかった。毅然としたまなざしが幽助を見据え、体の奥が痺れるように甘くなった。見えない糸に手繰られるような思いで、幽助は蔵馬のとなりに立った。
蔵馬がボトルを差し出した。幽助は一息に酒を呷った。その彼の唇を、蔵馬のそれがやんわりと吸った。促されるまま、幽助は少年の口腔に酒を注いだ。蔵馬の腕は幽助の首を抱いていた。
「……すてきだ」蔵馬が呟いた。「月下に美味い酒と良い男」
また、幽助の首筋に噛みついて、こうとも。
「香ばしい。陽のにおいがするよ」
幽助は蔵馬に腕をまわさなかった。このひとは今、夢幻の内に住まうひとのように容易く壊れやすい。本当ならば触れて良いひとではなかった。好きなようにしてくれて、言ってくれてかまわなかった。自分は勝手に見つめているだけなのだから。
「月に向かって吼えたくなる」
蔵馬は以前そう言った。だから幽助は、このひとはニンゲンの体に憑いた今も変わらず、野の獣なのだと思う。満月の夜に夜会を開くのが狐だ。何を為すでもなく語らうでもなく、ただ歌うように、満月を見上げて吼える、――それが狐だ。
蔵馬も吼えたがっているのだろうか。遠くに捨てた仲間たちに声を揃えたがっているのだろうか。幽助にではなく? 幽助は蔵馬を見つめている。再びふいと月を見上げた蔵馬の透明な横顔を見つめている。
「ちっとも喋らないね、幽助」
蔵馬が目を細めた。幽助は狼狽した。
「オレのことは要らないの、幽助?」
幽助は一生懸命首を振った。彼は上手く言葉を使えないだけだった。口をきかない幽助の腕を取り、蔵馬は己の腰にそれを回した。幽助が蔵馬の腰を抱く恰好になった。蔵馬は囁いた。
「なら、離さないでね」
幽助の胸はドキドキした。蔵馬の言葉に浮かされていた。尋ねたいのに尋ねられないのだ。ずっと離さなくても良いか、と。こわくて。言葉を上手く使えなくて。
「すてきな夜空だ」
蔵馬は愛おしいように囁いた。媚薬のように、幽助の内側で熱くとろける横顔だった。もううめき声すら立てられず、彼は銀色に光をはじく蔵馬の髪にキスをする。
〈了〉
1998年初出
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