【69再録】桜夢
お医者さまの絶対のお言いつけだから、守ろうと努力はしてみたのだ。
けれど、夜咲きの桜の散らす無数の花片が、あまりにも舞い騒ぐので、気になっ
てしまって。――惹かれてしまって。
押しても引いてもびくともしない、まるで壁のようなものだ。その浅さに反して、ひどく分厚い夜。敷布の中にもぐり込んだのは、時の感覚がまだ正常ならば、おそらく半刻も前。
堕ち行く先はあたかも北の最果ての海がそうであるような厚く張りつめた氷の眠りの中。すべり込むようななめらかさで透明に昏い眠りの中へと落ち込んでゆく。――常の夜ならばそうであるのに。
さもしいほどに休息を欲するこころと体がある。そのくせ、幾度寝具の中で身を返したかはもう分からぬ。過ぎる疲れは眠りを拒むが、こたびも久しくそうであるのか。――それとも誰ぞ、昏い夢を喰ろうているのか。
なれば身には覚えがある。やつだ。ヒトに巣くった銀色のきつね。
やつはそろそろ飽いてきているのだ。人間ごっこ、友情ごっこ、家族ごっこのお遊びに。今に暴れだすのだ。硝子の檻の内側で。やがて吼え猛るだろうよ。もうたくさんだと。
ケダモノだ。理性と機智と美貌を備えたケダモノ。壊すことをかけらも畏れぬ。……分からないでもない。なにせそれは過去であるがゆえに。そして、識るからこそ、より、それを忌む。
こころ憂う喪失の快楽。夜はたけなわ。ああ、闇が厚い。
見ると目を逸らさずにはいられぬながら、離れすぎると恋しさが募る。都合がよいと嘆いてみるが、それは、性だ。夜に生きるもののサガ。
陽。恋うが人間、畏るるが魔。銀のちからが指先にまで満ちる。あふれる。冷たくうずきだす。……ほしい。なにが? なにかが。熱いもの。冷たいもの。なにかが欲しい。……では。夜に狂う妖美を駆って、人間のひとつふたつでも喰らいにゆくかね? このような狂宴の夜、誰ひとりとして正気ではいるまいよ。おまえがそうであるように。おまえの正体などただのひとりも気付くまい。好きなだけ喰ろうたとして、誰もとがめはすまいよ……。
蠱惑だ。きつねは夢幻にいる。それが内から心を犯し、誘惑が甘く喘いでいる。
ああ、すてきだ。分かったよ、そうするよ、――だから、お願い、もっとしてよ――。
うっとりと引き込まれ、舌なめずりをしたその一刹那。
かちりとノブが静かに巡り、開いたドアの隙間から、ほのかなひかりが差し込んだ。
「……誰?」
蔵馬はゆっくりと身を起こした。
幽助は常にはない穏やかさでたたずんでいた。静かな表情を、落とされた明かりが厳しく隈取る。大人の男のようだな、と、蔵馬は思った。
「……幽助?」
蔵馬は首を傾げ、諭す調子で問うた。
「まだ眠っていなかったのですか。いけませんよ。あれほど早く寝ろと、」念を押したでしょうに。とは、蔵馬は言いきることはできなかった。幽助が、いかにも唐突に、ずかずかと歩み寄ってきたからだ。
彼は蔵馬のベッドのシーツを勢いよくまくり、その隙間から、ベッドの中へもそもそと侵入した。
「ちょ、幽助?」
さしもの蔵馬も仰天した。慌てて身をひるがえし、ベッドを抜けようとしたが、それよりも早く、実に素速く、幽助の手は蔵馬の腕を掴んだ。そのまま、抱き寄せてしまう。ふたりして派手にベッドに横ざまに落ち込み、幽助は、ことさらに力を込めて、蔵馬の細身をぎゅうっと抱きしめた。
身じろぎで、抵抗の意を表さなかったでもないのだが、そこはそれ、相手は大岩をも砕く男の腕である。蔵馬の細腕ごときがいかにあがこうと、解ける腕ではけしてないのだ。
幽助の吐息が首筋にかかった。奇妙に熱っぽい。これは弱った、と蔵馬は思った。
寝ぼけているのかしら。飛影は相変わらずいないから、物音や声の少々が洩れるのはまあかまわないとして、明日、はたして起きることができるだろうか。起きられなかったら、きっとあいつは怒るだろうなあ。痛いだろうし、こりゃあ、なんとしてでも手加減してもらわなくちゃあなあ。
などと思いを巡らせていると、案外にはっきりとした声で、幽助が言った。
「……蔵馬。おまえって、いつも、あったけーけど」
彼の手はどうやら、蔵馬の手を取るか否かを躊躇して、蔵馬の腿の上をさまよっている(押し倒されるよりもこちらのほうがなおいやらしいな、と、さらに蔵馬は思った)。
「あったけーけどさ、……ピンクの桜の花びらみたいに細かくいっぱい散ってんのが、ほんのちょっとの風で、すげぇ乱れてるみてえ」
熱い指先が手首にかかる。
「今のおまえの妖気。――」
それ以上をなにも言わず、幽助はかっちりと眼を閉じた。程なくして、奇妙に安堵したような寝息がゆっくりとこぼれ落ち、幽助は眠りに落ちたようだった。蔵馬の手を握りしめたままに。
蔵馬はしばらくぼんやりとしていた。……そしてやがて、ああ、とため息をついた。
「――まったく、恥ずかしいひとだね、あなたって。……手まで握りこんでくれちゃって、さ」
揶揄しながら呟いておきながら、蔵馬はそっと頬を赤らめた。幽助はもう、そのような蔵馬を見てはいなかったが、蔵馬は照れたようにふいと顔を逸らした。
どうにも解けそうにないてのひらを、ちょっと指の腹で揉んでみてから、寒さの不得手な蔵馬は、苦労しながらはねのけられたシーツをたぐり寄せた。シーツをなんとか整え、端をうまくふたりの間に押し込む。すると、気に障りでもしたか、幽助はわずかに身じろぐ。
「……」
蔵馬は動きを止め、息さえ殺して時を過ごした。幽助は目覚めない。
居心地を整え一段落すると、蔵馬は少し目を細め、薄闇をすかして間近に迫る男の子の顔をまじまじと見つめてみた。それは年相応に幼く、あどけなく、……だが、しかし――。
「……ごめんね」蔵馬は囁いた。「苦しいのはなにも、オレだけじゃないのにね」
きつねが嗤うよ。すべて喰らえばよいのだと。闇も混乱も平和も狂気も、喰らってしまえばあとは易い。いかにして美味に下すかを思い、これまでいかにも易々とやってのけてきたではないか。
非道であるから。酷薄であるから。拒むはすべてに勝る気高さであるから。
啖うがよいよ。目の前の美しいこども。先だって欲していた人間ではないか。柔い肉。甘い血。それとも、精液でも注ぎ込んでみるかね、くらま……?
「……、……」
幽助が呟いた。聞き取れぬほどの掠れ声で。まぶたが細かに震えている。蔵馬はそっと、彼のまつげをくすぐった。
分かっている。あれは闇、きつねじゃない。オレの中に在る闇。きつねのふりをして、こともあろうかきつねの皮をかぶって、オレを闇へと呼び戻したがっている、オレの持つ闇。手放すことは出来ぬもの。なぜならそれもまた、蔵馬であるから。
それでも蔵馬は惹き込まれはしない。幽助は、幽助の熱い手は、彼をしっかりと握りしめてくれているではないか。常よりこどものような幽助。そのあどけなさに、どれほど救われていることか。守られていることか。……思慕していることか。
蔵馬はそっと、幽助の胸に額を近付けた。幽助のにおいがした。豊かな、広々と情熱に燃える、日向のにおい――陽のにおいが。
幻海師範、ごらんになっていますか? あなたの残したものは、このこどもの中でより大きく芽吹こうとしています。陽の愛でてやまぬ、このこどもの中で……!
「……ねえ、幽助」
触れ合わせた手に力を込めて、蔵馬は眼を閉じる。「今夜だけで良いから、あなたのとなりに眠ることを、どうか許してくださいね?」
先ほどの闇色の魔性はまるで嘘のように消えた。何のせいかは考えずとも分かる。睡魔はほんのそこまで来ている。
「――負けないからね」
そして部屋には静寂が落ちた。
〈了〉
1997年初出
0コメント