【69再録】一番高いビルの上で
一番高いビルはどこだ。
お母さんは去りました。得意の口先三寸です。
お父さんも去りました。彼のオレへの信頼は絶大です。
弟は少しいぶかしい目でオレを見ました。彼とは全てを語り合ったわけではない。
時の流れはいつも残酷。緩慢と倦怠と酷薄の一巡。巡りきるとまた、初めが始まる。
早ク来イ。そして行き過ぎて。
時はいつも、流れ落ちる星のよう。
……ああ、そういえば。
精算がまだでしたね。オレの命はまだ、預けっぱなしのようです。
まだ覚えていますか。忘れてもらえていたら、幸いなのですが。あの満月の夜を思い出します。あのときのあなたの手は、まだ、オレのものよりも小さかったはずですが。今にしてみればただの記憶にすぎませんが、思い出すたび、オレの心臓は……着々と鼓動が弛まってゆく心臓は、針金の細糸で引き絞られたように痛むのです。
あの禍つ鏡は修理され、再び補完されたと聞きますが、あなたは再び、いえ、前よりひどく、あれを粉みじんにすることになるのでしょうか。
どうやら、ふたりはそちらに残ったようですね。淋しくはありません。彼らがそうであるように。
三分の一が安堵で、三分の一が無で、三分の一が後悔だというのは、きっと残酷なことでしょう。だから、少なくとも、三分の二は、あなたに殉じさせてもらおうと思っています。
昔そのようなことを何百人に強いた王たちがいました。あの王たちはただ、ひとりで浄土へゆく自信がなかっただけです。あなたが彼らとはまったく違った屈性を持っていることは百も承知ですが、それでもオレは、殉死、と、そのような言葉しか、知らない。
ばかげていますか。ばかげていますね。
あなたはきっと、そのようなオレを嫌うでしょう。
でもね。茨の道ではないのです。茨(いばら)は全て、あなたが除いてくれたではありませんか。
遠くに見え隠れするあなたの背中を、オレはただ、追えば良いだけ。
いま。彼女たちがこの街を出ました。あなたの大切な人達は、皆、無事です。
優しい人達ばかりですね。心配が、こんなに遠いオレにまで届き、オレの心臓はまた、痛みを訴えます。優しさはたまに、凶器にもなるようです。
夜が吼えています。人々が猛り始めます。ああ、光の氾濫。集いに集った人々の速度への欲求が、光の流れを生みました。けれど愚かしくも、あの中で人々は、期限付きの光の上で、この上もなくゆったりと寝転んでいるわけです。光が闇と背中合わせであることを知らず。光は常に、誰かの手によって作り出されていることを知らず。
それでも、風は涼やかで心地が良い。色褪せ、スモッグに濁った星すら輝いて見えます。
あなたにオレの姿は見えないでしょう。けれどオレにはあなたが見えます。じっと、三つの三分の一を睨んでいるあなたが。
知られるときっと、オレはあなたに嫌われるでしょう。それでも良いと、ここに来ました。ひとけはありません。このあたりで一番高いビルの上に、オレは、独りです。
オレの命はまだ、あなたに預けっぱなしです。けれど、間違えないでください。それゆえ、では、ないのです。
もしも三分の一のときは、ただ、笑いましょう。
再びあなたの笑顔を見せてください。
もしも三分の一のときは、オレもすぐに、追いかけます。
すぐに追いつきますよ。道に茨はないのですから。
そして、もしも、三分の一のとき。
この街で一番高いビルディングの上で、オレが、真っ先に、受け止めます。
あなたの後悔を。苦悶の喘ぎを。狂気の叫びでも良いですから。
このオレが、真っ先に。
あなたの苦痛を和らげようなどという大それたことは考えていません。ただ、ね。あなたのなにかを受け止めることは、おそらく、とても心地良いことだろうと、オレは思うのです。
あ、星が流れました。もうすぐですね。
一番高いビルはここだ。全て見つめています。
一番高いビルの上で。
〈了〉
1997年初出
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