【69再録】ふゆのかげろう

 いまにも壊れてしまいそうだ、と思うのは、なにも、抱きしめたことのあるものだけじゃない。細い、頚だな。まるで、頭を支えるのがやっとじゃないか。その上に、完璧な骨格を持った顔が乗っている。闇色の双眸はいつだって、柔らかな微笑をまとっている。女という女が焦がれ、妬み羨むほどに、長いまつげ。目許には絶えず濃い影が落とされていて、だから、憂いを含んだような寂しげな表情に見えてしまう。肌はごくごく薄くて、いまにも透き通ってしまいそうだ。それでいて、いっさいの穢れを受け付けない。名人の作り上げた白磁の皿のように、どこまで辿っても、すべらかで白いままだ。鮮やかに赤く、ふっくらと優しい唇は、けして卑しい笑いなど浮かべない。あくまでひっそりとつつましやかな笑いを零す。着衣はいつも、男性用のそれ。だけど、どんなコートで覆ってみても、しなやかな黒髪の落ちかかるその肩が驚くほど細いことは、誰の目にも歴然としている。顔の造りが、あまりにも、繊細で華奢だから。だから、いたずらっぽかったり、したたかだったり、そんな表情したって、だめだぜ。不安定だから、よけいに思ってしまう。華奢だなって。はかないなって。ほっそりとした体が、いやに優美だから。たまに幼子みたいな笑顔が、びっくりするぐらいに相応しく思えるから。だから、みんな、思ってしまう。おまえのことをよく知らないやつでも。不思議だなって思いながらも。脆くてはかなくて、硝子細工の人形みたいに、壊れやすそうだって。

 きれい、なんだ。それ以外に言えなくなるくらいに。あるいは、それ以上を言えば、いまにも霧散してしまいそうなくらいに、おまえは。

「……なに?」

 北風に踊る髪をうるさげに掻き上げて、おまえはオレを見上げる。まるでからかうように、瞳が笑ってる。

「じっと見つめて。もしかして、みとれていた?」

 こいつは案外にげんきんだ。さっきまで、寒くていやだってぼやいてたくせに、今はもう、雪道を歩くことを楽しんでいる。そうだろう? そんなからかいかたは、機嫌の良いとき特有のものだ。

「……雪って、あんまし好きじゃなかったけどさ」と、オレは目を逸らす。視界の片隅には必ず、あいつがいるけれど。「なんか、好きになっちまいそーだ。おまえのせいで、さ」

 わかんないってカオ、してる。おまえというやつは、たまに変に無防備で、オレが意識しなくたって、考えてること、読めてしまう。オレのマネして空を見上げたって、オレの見ているものなんて、見えないぜ。

「……おまえに見とれてたってことだよ」

 冬。あまり好きじゃない。寒いから。けど、考え直してしまいそうだ。ちらちら舞い降りる雪を髪に飾る、オレのとなりのおまえの横顔が、……そうだ、見とれるくらいにきれいだからだ。ずっと、見つめている。おまえがそっぽ向いてたって、目が空を見てたって、オレの視線はずっと、おまえを追っている。

「なんだか……」あ、ばか。爪なんか噛むな。傷むだろ。きれいな形してるのに。「自惚れてる。今日のあなた」

「オレがいつも言うべきセリフだな、それは」

「そうだけど、うぬぼれてる」

「はははは」

 笑いでごまかしたのは、あいつの言葉か、続きかけたオレの科白か。けど、失敗だったか。目尻の下がったオレをちらと見て、むくれたのかなんなのか、あいつは唇をちょっとまげた。

「ずるいな、あなたは。日一日と、成長してる。成長していない日なんてない。笑ってごまかすなんて、昔のあなたはできなかったのにな」

 ずいぶんとおまえらしくない、弱気なセリフじゃないか。いつもなら、笑って流してしまうくせに。そのうえに、傷ついた、なんて言うなよ? 笑いを通り越してしまうから。――言うなよ。オレに非がなくとも、謝ってしまうから。

 雪が、ちらちら舞っている。額に落ちて、前髪がぴたりと肌にはりつく。そのうえを北風が撫でる。冷たい。これって、氷の女神の涙なんだろーか。こんな冷たさを知っている。頬をこぼれた涙が、ちょうど、こんな感じなんだ。

「なあ」オレは問う。「泣いたこと、あるか」

「昔はうんと泣いてたな」

「赤ん坊の頃以外だ」

「……あるよ。ほんの数えるくらい。ほんの二、三度、…………。……だから、ずるいんだ。知ってるくせに」

「……」

 知らない。そんな自嘲気味の顔しなくったって、ホントだ。知らない。訊いてるのは、そんなことじゃないから、知らない。そんなことじゃなくて。

「なあ」オレは問う。「泣いたことあるか」

「……」俯く。「――ないよ」

「そっか」

 だったらこれ、おまえの涙なんだな。そっか。だからおまえ、不思議に冬が似合うのな。

――だから。そんなカオ、するなって。時々すれ違う男どもが、おまえのそんな表情(かお)に、偶然にも遭遇するのが赦せなくなる。さっき横を通ってったあののっぽだって、おまえ見て、意地汚くいやらしくにやけた。ただの偶然にすぎなくても、オレといるときしか見せないおまえの表情(かお)を通りすがりのやつが見るなんて、……赦せないものがあるだろ。哀し、そうだ。いつもよりよけいに、よぶんにきれいだ。オレも哀しくなる。

 大丈夫だって。ちゃんとオレ、知ってる。ただきれいなだけじゃないってこと、多分、おまえが思ってるより、ずいぶんわかってるつもりだ。変なとこでまぬけだったり、わがままだったり、たまにうんとおくてだったり。ひとが思ってるよりもずっとおもしろいやつだったり。水みたいに澄んでて純粋だったり、ほのおみたいに、情熱的だったり。隠してるわりにはふとのぞかせる、そんな表情も、オレはきちんと覚えている。――ちょっと、違うか。おまえがオレに刻み込んだんだ。

 あと見てないのは、なみだ、だな。いずれ、見せろよ。なみだ。待ってるからな。おまえのなみだは、ああ、でも、オレの胸もさぞかし痛くするんだろうな。

「――なあ」

「なに。さっきから。わからないことばっかり」

「茶化すなよ。――なあ」

 繊手という言葉が似合う手。そっと取ってきゅっと握ると、目の下あたりが、かすかに薔薇色を帯びる。夜毎絹の褥で目の当たりにする肌はいつも、こんな色合いをしている。体の奥底から浮かび上がる恥じらいが、遠火に肌を灼き、焦がすのだ。おまえは、まわりやおまえ自身が考えているよりずっと、恥ずかしがりやだってこと、いったい何人が知っているだろう。いや……オレだけで十分だ、それに気付いた男なんて。

「――あ」オレのもつれかけた舌先が言葉を紡ぐより先に、あいつが口を開く。つないだ手を取って、オレにささやく。冷たいよ。

「手。冷たいよ、すごく? だから、マフラー、してくればよかったのに。手袋だって、貸したのに。大丈夫? ――寒い?」

 オレの手を、ためらいがちに引き寄せて、おまえは。そっと、あたためた吐息を吹きかけて。やわやわとこすり。しっとり柔らかい頬に押しつけて、――オレのかじかみ、氷のように冷えた、言うことのきかない強情な手に――その貴重な、細いからだに隠し持った火種を、気遣わしげに分けてくれる。

「大丈夫だ」ああ、ああ、そんな心配そうな顔、しなくても。「――大丈夫だ」

 疑わしげなまなざしがオレを射る。そんなに睨みつけるな。見入ってしまう。戦う姿すら美しいおまえなんだから。

「大丈夫だ」オレは強張った微笑を説得に費やす。「おまえが熱いから、オレは大丈夫だ」

「――なら」黒曜の瞳にひらめいた戸惑い。「いいけど……」

 ぼんやりと言ってから、あわてて、オレの手を離す。好ましくないものを、思わず拾い上げた童女のように。いやなら、ばかだな、拾い上げるなんて残酷なまね、するなよ。オレのこころはもう、とっくに苦しいというのに。

 ちらちら雪が舞う。今朝のニュース、そういえば、キャスターがわめいていた。今朝の大雪は、十年に一度あるかないかのそれだと。

 いちめんのぎんせかい。

 ぬくぬくとした部屋から出てこようと思わせた雪にも、寒い雪道を共に歩きたいと思わせたおまえにも、魔力は備わっているに違いない。一歩踏み出すたびに、足元で雪がきゅっと悲鳴を上げる、そんな感触を、オレは初めて知る。穿たれた足跡が消えずに残る。雪自身の放つほのかな輝きに、かすかなかすかな陰翳をこびりつかせる。遠くで聞こえるのは、木々のいずれかの梢にたまりにたまった銀の塊が、枝のしなりに耐えきれずに雪崩をうって落ちてゆく音だ。たまにひうと吹く北風は、たっぷりと水気を含み、容赦なく暖かみになれた手にかみつく。ポケットに手を突っ込んだって、その内のなめらかな心地の繊維の、爬虫類の腹のようなひやりとした感触は、失せるものではない。

 おまえの手は、あったかいな。だから、オレは、大丈夫なんだ。

 気付いたら、言いそびれてる。聞きたくないのか? だったら、聞かなかったふりをしていろ。

「――なあ」

 オレは、ふらふらととりとめのないあいつの手をとらえ、ぎゅっと握り、ブルゾンのポケットの中に押し込む。興味もなさそうに彼方を見る瞳をのぞき込み、拗(す)ねたようにとがらせた唇に、苦笑をこぼした。つい。

「そんな、拗ねるな。……なあ」

「言いたいことがあるなら、さっさと言いなって」

「ん」

 爬虫類の腹の中が、あったまってる。いつの間にか。おまえの手が、侵入したから。

「オレ。…………おまえが、好きだ」

 間髪を入れず、夜闇の瞳が、ふっと笑った。

「なにを、いまさらなことを、いまさら」余裕たっぷり、自信過剰な微笑。危険な笑み。口調も、いつも通りだ、震えすらしない。

「オレも好きだよ。あなたのこと」

 微笑をたたえて、あでやかに赤い唇が、間近に迫った。軽く背伸び。オレは目を閉じ、与えられる熱を待つ。

 冷たい風がひうとふく。手のあたたかみに反して、冷えた唇。赤かったのに、今はもう、青醒めているんじゃないのか。

 ……こころは冷えているのに――醒めたふりを、たとえば必死で装っているのに――オレに、抱きしめられたがるんだな。キスには情熱を求めるんだな。わがままだな。吸盤かなにかのように吸いついてくる唇を、そっと引きはがす。はためくおまえのコートの裾のように、オレのこころはひらひらと落ち着かない。もとい。おまえが落ち着かせない。

 手。あったかい。こころに蓄えるべき熱を、おまえ、こちらに回しすぎてはいないか?

「いまさら……、か?」

「うんといまさら」

「だから、言いたかった」

「変なひと」

「そだな」

 でも、言いたかったんだから、そんなに笑うな。オレが考えて行動することは少ないことぐらい、知ってるだろう、とっくに。そんなに嗤うな。

「いつもいつも」オレは呟く。オレの呟きを覆い隠すように、風が吹き、オレの言葉は木の幹あたりにとばされる。「茶化すんだよな。おまえって」

「え? なんて言ったの、今?」

「――キスしてくれっていった」

 得心いかない顔つきながら、また、背伸び。オレのさっきの呟きは、いったいどこへいっただろうか。おまえに負けず劣らずはかなかったから、きっともうばらばらで、風化して彼方へと飛び散っているだろう。

――オレのキスは、獰猛で、いやらしい、……か。おまえのセリフだ、覚えてるか? もうずいぶん前の言葉だけれど、オレはまだ、きちんと覚えてる。おまえのセリフはいつも突飛で、忘れ得ないものばかりだから。獰猛でいやらしいオレのキス。そういうおまえ、自分のキスはどんなのか、知ってるか。おまえのキス――危険なんだぜ。離れては深く喰い込む、そっけなさを意識してるのに、たまに必死。無理強いを要求したくなるキスだ。逃げる獲物を追い求めることが好きな男に、強奪と所有欲を見せつけるキスだ。

 オレの内部をなめまわし、むしゃぶりつくし、探りつくし、唇は去ってゆこうとした。……待てよ。糸をひく冷えかけた唾液を追って、舌をのばす。甘く濡れた唇が何事か言おうとしたけど気にしない。侵入。甘噛み。ポケットの中で、オレの指の間で、なめらかな手がぴくりと揺れる。

 溜め息だか呻きだかが、重ねた唇の端から零れる。唾液よりもねばっこい。オレの執着とおまえの熱で練り上げられているからだ。にじみ出る感情(おもい)を、互いの体で漉したものは、いかなる物質よりも濃く緻密だ。

 息苦しくなるまで唇を吸いあって、かじりあって、やがて思い出したように離れる。少しだけ荒くなった息が、白く濁りながら上気した頬のまわりをとびちる。

「こんなところで、こんなキス」唇を辿った指先は、冷えて赤い。「ばか」

「おまえが先にしたんだからな」オレは握り込んだ手を離さない。「ばか」

 こんなところで。咎を匂わせるささやきが、しかし本心からのものでは全くないのは、おまえの様子を見ていて、しかるべきだ。そういって、なぜと問うなら、まずその自慢げなにやにや笑いをやめろ。

 公園の並木道のド真ん中。こんな天気だ、和気藹々の家族連れは少なくとも、空からの贈り物を味わいにきた、うれしがりなカップルは、けして少なくはない。睦言で、恋人との間の空気を白く染め上げる男たち。歯の浮く言葉に陶然と瞳を潤ませる女たち。そんな中で、オレたちは途方もなく異質だ。ゆえに、視界の片隅にわずかでもひっかかると、こちらに注目せずにはいられない。そして、オレには、女たちの視線が。こいつには、男たちの視線が、惜しげもなく注がれる。オレは女たちに美しく、こいつは男たちに美しいのだから。それは自惚れでもなんでもない、動かしようのない事実だ。

 知ったかぶりで、オレは文句を言う。「おまえが目立つんだ」

 すると、微笑みが押し寄せる。曰く、「あなたが素敵だから」

 笑ってしまうな。オレたちの会話はいつも、こんな不毛なものばかりだ。わかりきったことばかりを、だらだらと続けている。実に我慢をしているよ、オレは。オレほど短気な男もいないと思っていたのに。

「どうしたの。変な表情(かお)して」と、あいつはやはり余裕の笑みをオレに見せる。「誉めてるんだよ。すてきだよ。きれいだよ。本当に。あなたって」

 酩酊をにおわせる言葉は、オレすらもうっとりと酔いにおとしめる。おまえに溺れているオレと、オレが溺れているおまえ自身に、おまえは溺れている。それでも、こいつの溺死体は、ずいぶんときれいな顔をしているのだ。オレの胸に頬を寄せ、そっと頬ずりを繰り返しても、それはオレの目には、蜃気楼にも似た、おぼろげな揺らめきのように映るんだ。

「手は冷たいのに、どうして、あたたかいよ、とても」

 オレにしがみつくおまえ。オレにすがりつくおまえ。オレに抱き寄せられるおまえ。オレを抱き寄せるおまえ。オレを抱きしめるおまえ。オレを包み込むおまえ……。

 視線を感じるぜ。嫉妬と憧憬の視線。当然だよなぁ、おまえはこんなにも美しい。そのおまえを、こうして当たり前ってツラして受けとめてるオレが、おまえのすべてを握っているのだと、まわりの男どもは、今のオレを見て思うわけだ。木陰に隠れなければキスもできない自分たちと、このオレとの差を克明に感じてしまい、ひどく恥ずかしく思うわけだ。まったく、おめでたい、表面だけしか見てないやつらは。……そうじゃないから、こうできるんだ。

視線を感じる。けど、気にしない。おまえといる限りオレはひとの視線を気にせずにいられる。

「……あ?」

 オレに寄りかかって、うっとりと目を閉じていたおまえ、ふいにぱちりとまなこを開けて、オレではなく、空のかなたを見る。

「うわ……」

 ほぼ無意識に違いない、すこぶる単純で淀みのない感嘆が、あいつの口元から洩れる。なんだ? オレも見る。

 わかった、雲が、きれたのだ。今まで空全体を覆っていた分厚い灰色の雲が、空の彼方で、ふいに途切れた。漏れいづる陽の光。

 輝く雪が、光をはじいた。真夏にも似て明るくなる公園。いや、それでも、ここは冬だった。木々はきらきらしく、銀色のスパンコールをまとう。ダイヤモンドの結晶が降る。冷たく白い、生物のあたたかな息吹をかけらたりとも感じさせないこの光景は、まさに、冷ややかに美しい冬の女王の世界以外のなにものでもない。……きれいだ。おまえとは、また違った意味で。

 と。おまえに最も近い位置にいたおかげで、オレはふと気付いた。おまえの心の臓の音とやらなのだろうか――それとも核が、ほんの一回、とくりと大きく脈打ったことに。

 褐色のコートが、あいつの背でなく宙に舞った。かたく握っていたはずの手が、いかなる術(すべ)か、するりと抜けた。あいつは太陽に向かって、雲雀(ひばり)のように飛び立ち……。

――瞬間。

 視界がスパークする。まばゆい光の矢が、オレの目を貫く。痛いほどに。

 風に踊る長い髪。空(くう)を薙ぐ細い肢体。陽に融ける足跡。

 おまえははばたく。木々はざわめく。おまえは飛んだ。雲居の彼方へ。オレの届かないところへ。ぎんせかいへ。

 …………瞳を痛く射した光矢の余韻も痛々しいオレの目が、はじめに映したものは、ほかでもない、氷像にも似て無垢にたたずむ、おまえの後ろ姿。ああよかった、オレは安堵する。まだ、ここにいる。木々は静謐を取り戻し、おまえは自分がヒトであることを思い出し、オレは、オレであることを思い出した。思い出した、らしかった。

 軋む体を叱咤して……ぎこちない動作を恨みつつ……オレは一歩を踏み出した。おまえに向けてではなく、おまえが捨てた、茶色のコートへ向けて。ちょっと大きいって愚痴ってたけど、ばかだな、捨てるほどにも、いやがってはいなかっただろ。オレに買ってもらったって、喜んでただろ。オレは雪に濡れそうなコートを拾い上げ――まだ少しあたたかい――おまえの肩に掛けてやろうと、そっと背後へ歩み寄った。それを待っていたように、おまえはオレに向けて口を開く。

「きれい、だったね」

 それは、さっきの情景のことか。おまえを含む、情景のことか。

「きれいだった、ね?」

「ああ」きれいだった、よ。触れられないほどにきれいだったとも!

 気を取り直して、オレはおまえにコートを掛けようとする。するとおまえは、言葉でオレを制する。

「やめて。だめだよ。とけてしまう」

 振り向きさえしないくせに。黒いセーターに染みのように散ったかけらに、おまえに仕種(しぐさ)で示されて、オレはようやく気付く。

「結晶。わかるでしょう。きれいでしょう。もったいない、コートなんて着たら、これがとけてしまう」

 細い肩口に溜まった、雪の結晶を、おまえはかばう。その気持ちも、まあ、オレにはよくわかる。だって、結晶、はかなくてきれいだもんな――。

「きれいでしょう」

「――」

「? なに?」

「いや……雪印のマークだなと」

「嗚呼! なんて色気のないひとだろう、このひとは!」

 ……こちらを向き、声を高めたおまえの、ころころと笑うやんちゃな笑顔に、――オレは見とれずにはいられない。

 けど、寒いくせに。肩、震えてる。我慢なんか、するなよ、指先だって、そんなに真っ赤じゃないか。

「……寒い、だろ。ばかなこと言ってんな。風邪なんかひかれたら、こっちが迷惑するんだからな。ほら、コート、着ろよ」

「いらないよ。それはあなたにあげる」

 おまえがくすくすと、鼻先で笑っている。寒さで唇が青醒めても。

「……オレに?」

「あげる」

 オレはしぶしぶ、コートを羽織った。そして、コートのかわりに脱がざるを得なくなったブルゾンを片手に、ひらめいた。

 オレの熱でまだあたたかいブルゾンを、有無を言わさず、あいつの肩に掛ける。おまえには珍しいびっくり顔。オレは、下手な言葉のかわりに、うまくなったキス。

 オレのブルゾンの下で、おまえを冷やしていた結晶は、一瞬にしてとけてしまっただろう。おまえは、オレのキスでとけてゆく。だからオレは、おまえにはなかなか触れられない。おまえは、触れると、とけそうで……崩れそうで……壊れそうで……結晶のように。だから、オレは。

 唇を離してしまって、オレもあいつから、ちょっと離れる。

「やるよ」くそ、赤面なんて、いまさら。オレらしくもない。「それ、やる」

「……」ぼんやりを装って、おまえの瞳は、ひどく真剣だ。

「だから……トレードだ」

「……貿易(トレード)?」

「ばか。交換(トレード)だ」

 ああ、と、ため息がつかれる。

「トレード。……ああ、交換(トレード)、交換(トレード)」

 言ってから、いったいなんだってんだろう、思い出したみたいに、頬が赤らむ。オレをちょっと見上げてすぐ目を逸らして、迷った手つきでブルゾンの裾を掴んで、やがて、おずおずと腕を通した。

「……あったかい」なにかがあったらすがりつきたい、みたいな風情の目つき。「あったかい……あなたのせい?」

 言ってしまって、ふいにおまえは口を押さえる、言ってしまったことを後悔でもしたかのように。

 見ないふり、見ないふり。そしたらこいつは、怯えない。おまえと居たら、オレ、心こまやかになってしまうよ。

「なあ」オレは、ちょっとだけ、おまえから目を逸らす。「……ラーメンでも、食いにいくか」

「……うん」

 そうだ。その表情(かお)、してろ。そしたらおまえは気が楽だろうし、オレもおまえに怯えなくてすむ。気弱な表情なんて、かわいいけど、おまえらしくない。強気で自信過剰なのが、おまえらしくて、いい。

 オレたちは、ゆっくりと歩き出す。ふくらはぎまでもあるコートが足に絡んで、なれないオレは、ちょっとうるさく思ってしまうことを禁じ得ない。

「なに、食う?」

「ラーメン屋さん、見立ててよ」

「けっ、甘えてやんの」

 そんな言葉を交わしながら歩いていると、ああ、また、感じてしまう、忘れていた、まわりの視線に。なにか、珍妙なものを見るような目つきに。

 おまえが、きれいだから。オレたちが着ている上着が、どうもちぐはぐだから。おまえの正体に、そろそろみんな、気付きだしたから。あるいはオレの正体に気付きだしたから。

 いくつか思い浮かんだことを、鼻先で笑い飛ばす。オレたちが、オレたちだからだと、そう思って。

 ふと、この手になにかがからみつくことに気付く。ちらと見て思わず笑う、おまえの手、か。ずいぶんあったまったけど、まだ少し、冷たいな。オレはその手を強く握り返し、おまえの反応を待たずして、オレのコートのポケットに……ひいてはおまえのだったコートのポケットに、押し込む。きっとすぐ、あったかくなるだろう。

 オレたちは顔を見合わせて笑いあう。

「……行くか」

「……行こうか」

 オレたちは歩き出す。

 


〈了〉

1997年初出

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