【69再録】さんぽ

 朝起きたら、とってもいい天気だった。あんまり気持ちよくあったかいものだから、思わず、さんぽにいこうといった。


「あ。四つ葉のクローバー」といった幽助を、蔵馬はゆっくりと振り返る。幽助の大きな手の中には、少しちっぽけすぎるくらいにちっちゃな緑色の葉っぱ。蔵馬はふんわりと笑う。

「すごい。オレがこんなに探しても、見つからなかったのに」さっきからずっと、クローバーのしげみをのぞきこんでいた蔵馬は、名残惜しげに手元の三つ葉の群れをちらと見てから、のそのそと四つんばいで幽助のところに戻っていった。

 ゆるやかな春風たなびく堤防の土手。いまさら少しばかり照れくさげに間をおいて、ふたりは、ミルクをとかしこんだ、いかにもふわふわと柔らかげな空を見上げていた。

 戻ってきた蔵馬が、あんまり羨ましげにクローバーを見つめるものだから、幽助はちょっとばかり胸を張ってみる。すると、あんまり張りすぎたものだから、とても他愛なく後ろにころんとこけた。蔵馬にクスクスと笑われてしまい、幽助は頬をふくらませた。

 蔵馬は、幽助を、ではなくて、幽助の手の中の緑の葉っぱをのぞきこむようにして身を乗り出してきて、甘いようにこう呟く。

「不思議だねえ。こんなちっぽけな葉っぱが、人間界(こちら)では、幸運のシンボルなんだものねえ。……」

「ん」

「人間らしい、かわいい言い伝えだけれどね」

 含みを感じて、幽助は不機嫌につきだした唇を引っ込める。「信じてねーの?」

「あんまりね」

 蔵馬は目にかかる髪をそっと掻き上げる。そうすると、その水のようになめらかに流れる動作は、たちまち小さな風を巻き起こす。幽助に風が吹き付けて、幽助は思わず、目を細めてしまう。蔵馬は春のにおいがするんだ。

「だって、」蔵馬は微笑(わら)う。「いのちだもの。オレや幽助や、ううん、この場所に生きている植物や、動物たちの、ほんのひとかけらにすぎないもの。この草(こ)は。そのいのちの中に、どれが普通でどれが特別かだなんて、あるはずがないもの。三つ葉も四つ葉も、いっしょ。この草(こ)は、他の草(こ)たちよりも、ほんの一枚多く葉を持って生まれてきただけ。できるのは、幸福を願う気持ちの後押しをしてあげるくらいだ」

 幽助は舌を出して、「現実主義者はかわいくねーぞ」

「まったくだ」

 蔵馬の苦笑は、なぜか、哀しい。

 幽助は、蔵馬の手を軽く引き寄せて、ちょっと強めに握る。大きくてあったかい手に、蔵馬はどきっとした。

「おまえのいうことって、いつも、正しいけど」幽助はまっすぐな視線を蔵馬に向ける。「でもさ、四つ葉のクローバーが幸福のシンボルだってのも、正しいんじゃねーかな。……葉っぱ、四つあるだろ。まわりが三つばっかだから、やっぱ、こいつらん中じゃ四つ葉は、特別だろ。それが、なんでなのかって考えた結果じゃねーかな。うまく言えねーけどさ、なんてーのかな、人間はさ、他と違うってことに理由が必要で……それに、そんなふうに息抜きみたいな考え方も、あったほうが、楽しーじゃん。こーやって、寝っころがってること、楽しめる。……『特別』は、さ。必要だぜ。やっぱ。『普通』ばっかりだったら、おもしろくねえ。特別も、いたほうがいい。(罫線)人間なんてほかにいっぱいいるのに、その中で、おまえだけが、オレにとって、すっげえ特別なふうに、さ」

 蔵馬は真っ赤になった。真っ赤になって、口の中で何かごにょごにょといってから、ぷいとそっぽを向いた。「のろけるんじゃないよ」とでも、いったのかもしれない。のろけているのかなあ? と、幽助は思う。だって、四六時中思っていることだ。蔵馬が大切で、蔵馬が特別で、蔵馬が大好きで、蔵馬は、世界にただひとり。だから、こうやってじゃれつくみたいにそばに居るし、ずっと、居たい。いつだっておしゃべりしていたいし、抱きしめていたいし、幽助にそうされたときにとてもとても照れる蔵馬を、かわいいと、きれいだと、思う。だから、思わず、他愛のない誉め言葉を口にしてしまうと、蔵馬はまた、照れるというわけだ。でも、そんなときじゃなくったって、幽助は蔵馬をかわいいと思うしきれいだと思うし、賢いとも、ばかだとも、思う。それに感化されたことばが口をついてしまう。それが、のろけてるっていうのかなあ?

 幽助は気付かない。いつも蔵馬の見つめる方向を見ていたいと思っている幽助には、蔵馬の『特別』な気持ちが自分に向けられていることに、それを実感してしまう、とてつもなく恥ずかしいほどの誇らしさには、気付けない。

「……やるよ」

 まだ寝転がりっぱなしの幽助は、蔵馬にクローバーを手渡して、その手で蔵馬の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。蔵馬は迷惑そうに身をすくめたけれど、とりあえず、されるがままになっている。

「信じてないわりに、探してたのな、おまえ。クローバー」

 すると、蔵馬はいつの間にか普通の色合いに戻してしまった頬を、茶目っ気たっぷりにぷうと突き出してから、さもおかしそうに、ぷっと吹きだした。

「なんだよ」

「やっぱり、知らなかったんだ。だったらなおさら、オレが見つけておくべきだったなあ」

「?」

「信じてなんかいないけど、花言葉に、侮れないものがあるんだよ。あなたは気にも留めないんだろうけれど」

「……」

「あなたに送るつもりだったのに、逆にもらってしまうなんてね。返事、今してもいい?」

「おい、だから、なんだって」

「うれしいよ、すごく。ありがと……」

 幽助は黙りこむしかない。覆い被さるように胸に顔を埋めた蔵馬の髪をやはり、くしゃくしゃとかき混ぜている。

 日曜日の昼下がり、菜の花が満開の土手。ここでこうしていると、ふたりは、日常のわずらわしいことなんか全て忘れてしまう。太陽はぽかぽかと暖かい。風はふわふわと、強張った体をほぐそうと全身を震わせる土のにおいを運んでくる。こんな時に、なかなかうまく重ならないふたりの生活のサイクルを思い出すなんて、無粋だ。今。心地よい時間を過ごしている。となりには、特別で、大切なひとがいる。そのひとのいのちの音が聞こえてくる。これ以上に素晴らしいことなんて、ほかに、あるんだろうか? そう思ったら、キスがしたくなる。だって今はいちばんすてきな時間だ。こんな時にしないで、キスはいったいいつするっていうんだ!

 蔵馬はクローバーの茎を噛みしめる。その少しだけ苦い唇で、幽助の唇に、そっと触れる。目を閉じた幽助は、顔にふんわりとあたたかかった日差しが遮られたことで、来るべき時を確かめる。蔵馬をぎゅうっと抱きしめるとき。マシュマロのようにとろけあう唇の間には、クローバーの苦みが挟まっていたけれど、ふたりは唇を離しはしなかった。もっとくっつきあいたくて、抱きしめあいたくてたまらない。キスでなくったていい。ずうっとふたり、空と海みたいに、広く、深く、うんとたくさん、くっついていられればいい。

 優しい風にさざなみだつ若い葉と、穏やかな太陽に混じって、堤防の上を歩いていくひとたちの視線を感じる。でも、人目を気にするなんてことは、自信のないやつらだけがやっていればいいんだ。それに、どうも情けないけれど、ふたりとも、目の前のことだけで手がいっぱいだ。ふたりの間に割り込み損ねたクローバーが、幽助の頬をかすめてはらりと落ちる。

 幽助はうっとりと目を閉じる。蔵馬がとても、やわらかだから。そのいかにもほれぼれと甘い表情の幽助の耳元に、ちょっと乱暴に、それでも少し照れているように口元を寄せて、蔵馬は、春風を脅かさないような優しさで、そっと囁く。四つ葉のクローバーの花言葉はねえ、『わがものとなれ』っていうんだよ……。

 春の土手は、恋とのろけあいの広場らしい。

 


〈了〉

1997年初出


■意識的にあほらしいまでのバカップルを書こうとしたのは伝わってくるんですがしかし破壊力がでかすぎます。最後の1行しか読んでないけど死にたいです。

0コメント

  • 1000 / 1000