「たまゆらに咲く」初版時のトークを発掘
「空色」とまったく同じ経緯です。この頃は、自分的に「おまけ」の部分は分冊して出してました。でもどうせみんなセットで持って行ってくれるし~、費用もかさむことになるし~、だったらまとめたほうがみんなお得~となって最近は何でもかんでも一緒くたにしがちです。
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■「たまゆらに咲く」というお話は、CLOCKUPから出ている『プレゼンス』という18禁PCゲームをもとにした、いわゆるWパロの体裁を取っています。が、話を練ってゆくうちにもともとのゲームの形は失われ、『1週間が繰り返される』という点のみがわずかに面影を残すのみ、というふぜいとなったように思われます。また、書き手である私はこの『プレゼンス』というゲームをプレイしておらず、ノベル版を読んだのみですので、本当の意味でのWパロとは言いがたいのかもしれません。が、私に1作を書き上げるだけのひらめきをもたらしてくれた小説、そのもととなったゲームに敬意を表して、ここでそのお名前を挙げさせていただきます。
■ちなみに、この小説を読んだのは2002年の春先のことと記憶しています。たしか、読んだ1週間後には、この『たまゆら』のプロットを書き上げていたように思います。私はふだんはこの手の小説を読むほうではなく、ただ本屋でちらりと見かけて、そのアオリ文句に惹かれ、たまたま購入に到りました。そして今、こうして1本の物語を書き上げたところをみると、あるいはあれは、偶然という名の必然だったのかもしれません。
■ときどきそんな、偶然という名の必然を実感することがあります。同人活動に於いても、それとは関係のない場に於いても。ずっと見つからなかったパズルのピースが不意に現れ、カチリと音をたててあるべきところにおさまるような瞬間が。この作品の元ネタがそうであり、またこの作品それ自体がそのような存在でもあるような気もします。書き上げたプロットを4年半も放置していました。この作品を書くことはないかもしれない、と、プロットを見るたびに思ったこともありました。が、たぶんこのお話は、機が熟するのを待っていたのだと思います。このお話は楽園シリーズに連なるお話ですが、そのシリーズのなかで、このお話の立場が固まるまで。そして、私がこのお話を書くに足る人間になるまで。プロットのまま、待っていたように感じます。「空色」のときもそのようなことを感じました。あれもたしかプロットを書いたのは2002年、発行は2006年。2006年の私だからこそあの話は書けたのだろうということを感じた1本でした。
■……そのようにして、お話がひとつひとつ出来上がるのを待ちながら書くのは我ながら、迂遠なことだと思ってやまないわけですが。なかなか執筆ペースを上げられなくて困ります。
〈たまゆらに咲く〉
■このお話を書いていたある頃、いつも本を読んでくださっている方に言ったことがあります。「次の本は超ありがちネタで行っちゃいますよ~」と。彼女は言ったものでした、「え、夢オチとかですか?」。思わず背筋が冷や汗に濡れたものでした。そのときは適当にかわしましたが、もしかしてバレバレだったかもしれません。
■で、夢オチなんですが。ほんとに夢オチなんて書いて大丈夫なんだろうか、読み手さんに怒られないだろうか? という気持ちでずっと書いてきて、結局胸を張れないまま本にしてしまいました。夢オチなんかですみません、という気持ちがあります。「なんだ夢オチかよ!」とか、思いませんでしたでしょうか?
■ですが、ネタのチープさとは裏腹に、たくさんの大切なことを詰め込むことができたようにも感じています。夢の中というなんでもありな世界だからこそ、蔵馬を効果的に追いつめることができ、蔵馬の中からさまざまな価値観や感情を引き出すことができたように思います。蔵馬はあれだけ追い込まなければ自分の精神の底にあるものを自分でも見つけることができないのですよね。あるいは、知っていながら見ないようにしているのか。
■それにしても、あんな不思議ワールドに放り込まれて半年近く持ちこたえるとは蔵馬ときたら、強靱というか、頑迷というか。最初のプロットでは10週間ぐらいのあいだの物語のつもりだったのですが、とうていおさまり切りませんでした。
■ところでこのお話、とっても地味にとっても大事なことが書いてあるんですよね。私は書き手ですが、自分の書く蔵馬があんな愛を持っていたというのは、初めて知りました。幽助が蔵馬に惹かれる理由は分かっていたのですが、結局、蔵馬がそうだから、幽助は蔵馬に惹かれざるを得ないのでしょうね。これも今後、たんねんに書いてゆかなければならないテーマのひとつのようです。
■そういえばこの本のサブタイトルは非常に悩みました。いつも裏表紙につけている英語の単語だったり一節だったりのことですが。これは作品イメージを表現しつつ、あまり分かりやすい、一目で意味の分かるような言葉は避ける傾向にありますが(たまにはモロだしの場合もあります)、今回は内容が内容なので、dreamとかloveとか、分かりやすい言葉は排除するよう心掛けました。でも日本語のイメージが『愛に堕ちる』『愛慾の囚人』『快楽主義者の饗宴』『快楽の牢獄』など、そんな感じだったんで、妙にloveが出てきたり、意味がだだ漏れだったり、一文が長かったりして、つまりサブタイにはあまり向いていない形になってしまったのです。なので最終的にはああいうことになりました。ある意味ではふさわしいような、しかし今回の本はアリプロにお世話になりっぱなしのような、そんな風情で苦笑してます。
■あれ、「たまゆら」をすでに昨日印刷所さんに送ってしまった今、思い出しましたが、蔵馬が夢魔に取りつかれた過程も簡単に書く予定がプロット段階ではあったような………………………………ま、いっか。想像力で補ってください。
〈サロメティック・ルナティック〉
■このタイトルは私的に少々いわく付きでして。大昔におそらく幽白でこういうタイトルの同人誌を見たか聞いたかしたと思うんですが、それがずっと頭に残っていて、いずれこういうタイトルの話を書くかもしれないな~と思っていて実際書いてみれば、ほんのつい最近はまったばかりのALI PROJECTというアーティストの曲だった、という。好きなもの、心に引っ掛かるものは出会うべくして出会うのだということを、ここでも実感するわけです。
■幽助視点からのお話ですね。これもノベル版「プレゼンス」に添った流れです。きつくてグダグダのお話のあとに、やさしく甘いお話を持ってくるのが好きです。そうすることできついお話の無惨さと、やさしいお話のもの哀しさがよりいっそう際立つように思うので。苦悶好きの方は思う存分楽しんでいただければ、と思いますが。
■それにしても蔵馬がケダモノで、ケダモノで。こういう蔵馬は頽廃に満ちていて好きです。ふだんが理性的で自制心が強いだけに、その状態を維持できなくなったときの落差は大きいのでしょうね。あまりの両極端ぶりにはいささか笑えますが。
■ちなみに「たまゆら」「サロメ」の2連作は、それなりにハッピーエンドだと思ってます。鉄の処女(アイアンメイデン)のかいなに抱かれるようなこの夢の日々から、蔵馬はほっとけば一生出てこないと思います。
〈螺旋幻想〉
■「たまゆら」ラスト、「こんなところで止めるなんておめーは鬼だ、この先を見せやがれ!!」と自分でも思ったので、書いてみました。こうして蔵馬をどん底まで突き落としていくのは必ずしも私の趣味ではなく、あくまで蔵馬の自業自得でしかないとは思うのですが、苦悶する蔵馬を書くのは嫌いではありません。でも蔵馬があの性格を変えない限り、幽助との恋愛はつねに苦悩含みなんでしょうね。好きな相手にあそこまで心を閉ざしてしまうっていったいどういうことなんだろうな~。
■ケダモノになる幽助を書くのが好きです。残忍な男が好きなのではなくて、ふだんは無邪気で陽気なかわいい男が実は切れ味の良い刃物を隠し持っていて、ときにその刃に振り回されてしまう、というのが良いです。
〈黄泉恋坂〉
■と、上記のように書いてはいますけども、幽助の無意識は実のところ、思い通りにならない恋人を暴力でねじ伏せてでも自分のものにしたい、支配したい、のかもしれません。誰に対しても開放的で執着の薄い彼は実は、たったひとりに対してひどく粘着質で束縛性が強いのかもしれません。彼が自身で把握している限りは彼は、メレンゲ菓子のように甘くやさしく柔らかい恋を、愛を望んでいるようではありますが、それと対になるような凶暴性をもまた、恋人に向けるひとなのかもしれません。その危うさ、アンビバレンツが彼の大きな魅力のように感じます。
■黄泉平坂(よもつひらさか):「現世と黄泉の国との境にあるとされた坂」……幽助はもっと健康な女の子と健やかな恋をすればいいのになーと思うんですが、蔵馬の呼び声に彼は応えてしまうんですよね。結局のところ、このふたりは、その精神性、その価値観に飼う底ぐらい部分が呼びあうのかもしれないな、と思ったりもいたします。
■そして実はこのタイトルもアリプロの曲の一節からです。お世話になってます、まったく。
〈イノセント・ワールド〉
■このお話はなにやら幸せそうで、ちょっとほのぼのしますね。いつもこんなほのぼのが書ければ良いんですが。そういえば珍しくプラトニックです。プラトニックというのはそのストイックさがなにやらエロくて素敵だと思います。
■余談ですが、この「たまゆら」シリーズでは、いろんな幽助が書けて楽しかったです。こうしてさまざまなパターンでもってふたりの「始まり」を書く機会というのは、私の作風がら、あまりないことですので。そして幽助が、どんなパターンであれあるポイントを踏襲しさえすれば、他愛もなく蔵馬にはまってしまうひとであることも再認識しました。九浄や飛影はどうがんばっても蔵馬にはまったりはしないのになあ。
■このお話のような、幽助の蔵馬への接し方にはとても憧れを感じます。幽助は恋人にすると、あふれるような愛情の中に溺れさせてくれるひとなのだろうと思いますね。その愛情は、けっして蔵馬に届いていないはずはないと思うのですが。
■追っているのに逃げざるをえない。逃げながら追ってしまう。蔵馬が幽助と正面から向き合えるのはいつなのでしょう。
■「たまゆら」の後書きで書いたことを繰り返しますが、これら「たまゆら」5連作は、私が別口で書いている幽蔵ストーリー「楽園」シリーズと密接に関係しながらも同一ではありません。これが「楽園」の流れとは別の部分で実際に起こったことなのか、それとも書き手と蔵馬の玉響の夢(妄想)に過ぎないのか、それは書き手にもわかりません。曖昧に、宙ぶらりんに、割り切れない不条理でもって、読み手さんの胸にとらえどころなく漂ってくれれば良いなと思います。今回も納得のゆくものをしっかり書けて、幸せです。
■それにしても、エロゲが元ネタだというのに、さっぱりエロいものを書けなかったことだけが激しく心残りです。
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