【雑文】幽遊白書と私

■滑って転んで人生変わってもうすぐ20年。初めて人生の転機を振り返ってみました。

 

■出会い■

 出会いはごく単純。1990年当時、我が家はWJを毎週欠かさず買って家族で回し読みする家庭でした。私は載ってる漫画はとりあえず全部読むという子供でした(JOJOと男塾は読み飛ばしてたかも。当時の私にはあまり分からない感性だった)。「てんで性悪~」もリアルタイムで読んでました、たしか。「エッチな漫画」という程度の認識だったと思うけど。

 だから出会いはWJの連載第1話。いきなり主人公死んでるよははは馬鹿めーというのが第一印象。当時の自分は漫画自体は大好きだったものの、特定の漫画にはまるという概念は持っていなかったため、その後も必要以上に入れ込むこともなく他の連載漫画と同じようにさらさら~と読んでいく漫画のひとつにすぎませんでした。ん~、この頃大好きだったのはたしか、バスタードと花の慶次。ああもちろん、山岸凉子と魔夜峰央は私の仕様においてデフォで。はまる、ということを知らなかったわりには、親から漫画禁止令を出されるほど漫画好きだった記憶はあります。

 ちなみにこの当時、私の住んでいた地域ではフライング販売がひどく、土曜の午後1時頃にはWJが駄菓子屋の店頭に並んでました。たぶん日本最速だったんじゃ? あっWJ、170円だった気がする……!

 はまる前の認識は「毎週読んでる面白い漫画」というていど。妖狐が出てきてから、妖狐がうっすら好きだった気がします。当時はこういうシャープな雰囲気のかっこいいキャラが好きだったのだ。

 92年秋にアニメが開始されるということでなんとなく1話を母と視聴。事前情報はほとんど持ってなかったんで、OPで蔵馬の髪が真っ赤であることに母とともに爆笑。

 その後、アニメは見られるときは見る、見られないときは見ない、という程度に見てた。その後にやってたセラムンのほうがまじめに見ていたと記憶。


■はまる■

 忘れもしない、93年5月。部活で仲の良かった子が部室にこっそり漫画を持ち込んできてて、それが「幽白」でした。6巻までとかそのへんだったんじゃないかな。WJでずっと読んできてるけど通して読んだことがなかった私、なんとなく読ませてもらったらこれが超面白かった。幽白ってこんな! 面白かったのか!! となって、もうそこからは坂道を転げ落ちるどころか、断崖絶壁から飛び降りるかのごとくドはまり。この頃は確かJCは12巻まで出てて、今なら大人買いするんだけど幼かった当時ははやる気持ちを抑えながらじりじりと集めたもんでした。といっても2ヶ月ぐらいで出てた分はコンプしてたけど。たしか飛影ファンで、飛影の一挙一動にきゃあきゃあ言ってた。

 当然アニメもちゃんと見るようになり、土曜の18時半はテレビの前に固有結界。どこから見てたのかは定かではないけど、幽白アニメ中に父親に呼ばれて家の用事言いつけられて切れそうになったのは幽助vs陣の回だったことは覚えてる。そして当然録画。ああ、今や懐かしきVHS。


■のめる■

 当時は学校まで、近所に住んでる友達とチャリでいっしょに行ってたんだけど、この友達、幼なじみだし一番近所に住んでた子だったけどいろいろあってそんなに仲良くはなかったのね。だけど好きなものを抑えられないあさはかな私がぽろりと「幽白面白い」と言ったんだかなんだったんだかで、彼女も幽白にはまってることが発覚! 当然ふたりして大フィーバー! 通学の道のりが楽しくて仕方なくなり、ふたりしてあまりにハッスルするもんだから、およそ5kmを25分ぐらいかけて行ってたのが15分ぐらいにまで短縮、他にもいっしょに行ってた子を置き去りにしてしまう勢い。ちなみにうちのペーパーをお持ちの方は見てもらえればいいが、「螢雪時代」の文字を書いてくれたのはこの子、はるひやさんである。

 彼女も飛影ファンで、フィーリングぴったり! 彼女とはずっといっしょに通学したけど、いろんなオタク話したなあ……。

 アニメを見始めれば当然というのか、アニメ雑誌に気が向くようになる。初めて買ったアニメ雑誌は、一番安いからという理由でアニメディア。幽白についての投稿記事読んで、イラスト見て、全てが楽しかったなあ。

 んでメディアには、同人誌紹介コーナーがあったわけですよね。幽白旋風がオタク業界を席巻しているこの当時、当然紹介コーナーの大半が幽白本だったわけです。欲しい! となって、通販申し込み。

 ちなみに当時の自分は、同人誌自体は知らなかったけども同人誌というものがどういうものであるかというのは知っていました。なぜなら「あさりちゃん」という漫画でタタミお姉ちゃんが同人誌を読んでいて、それをのぞいたあさりちゃんが「男同士でやらしいことを!」とびっくりしている、というエピソードを、いつどこで読んだかも覚えてないまま記憶に残していて、だから私の認識としては「同人誌とは男同士がやらしく絡みあってるもの」でした。「男同士がやらしく絡みあってるもの」なのに欲しいと思い、通販したのはひとえに、抑えられないエロ心からのもんですな。いや掲載媒体がメディアなんだから紹介されてる本は健全が大半で、私もそれは分かってたし、1冊だけあったなんかエロっぽいものはハードル高く感じて結局買わなかったのですよ。……でもその本の表紙は覚えてて、やふおくとかで見掛けるといまだにドキドキするのは内緒だ(笑/蔵飛本だと思うんで今の自分が買うことはない)。

 同人誌を初めて読んだ感想は、覚えてないなあ。あの本だと思うんだけど……(と記憶にある某1冊を探る)。公式ではないこと、素人制作の本であることは了解してたみたいだし、本が薄いことも、薄さに反して高額なことも、内容に対しても、特に違和感を感じた記憶がない……というか上から読んでくると私は蔵馬の髪が赤いこと以外はまるで違和感もためらいも戸惑いも感じず丸裸で北極の海に飛び込むように無防備なもんだからなんだかなー。ともかく、幽白に燃えて、抑えきれない心を同人誌でなだめるライフがこのへんから始まったわけです。即売会の存在は知らなかったし、知ってても地理的に行けなかったんで、もっぱら通販でしたけど。当時も当然淡路島に住んでたし、当時の交通事情では単身で神戸まで出るのに片道2時間半、交通費は往復5千円……ぐらいだったかな? 年齢的に難しかったのだ。

 かように丸裸状態で飛び込んだものだから、当然何も知らず、カップリングというものも持っておらず、手当たり次第なんでも読んでました。でも奇遇なことに、上記の初めて手に入れた幽白本は、4人の作家さんの合同健全ギャグ本だったんだけど、のちのちいろいろ理解して読み返してみたところ、うち2人は幽蔵さんだったようです(笑)。一番絵がお上手だった方の幽蔵本は数年後に巡り巡って1冊だけゲットした(笑)。

 以上が93年の5、6月あたりの出来事。


■転回■

 この頃、原作の展開は魔界の扉編に入っていました。四次元屋敷でのエピ以来飛影が一旦退場してしまい、飛影成分に欠けて早く戻ってきてほしいな~と思っていた頃でした。7月半ば、転回点がやってきました。

 彼が登場したのです。

 刃 霧 要 が。

 一目で恋に落ちました、ツボど真ん中のお顔でした。飛影への思い(笑)は残してたけども刃霧>>(越えられない壁)>>>飛影って感じで、もう頭の中は刃霧さん刃霧さん刃霧さん刃霧さんでいっぱいいっぱい。寝ても覚めても刃霧さん、語ってもすべて刃霧さん。一大フィーバー。

 幸せだった。このときは。

 さて刃霧フィーバーが始まって間もなく夏休みに突入したわけですが、この年の夏、私は1週間の海外旅行に行きました。その間当然WJは買えず、ここまではまってる幽白に触れることができないのは寂しいと言ってWJの幽白部分だけ切り取って旅先に持っていったりしてね(イタタタタ!!)。でもってこの旅は、ほら少年少女の旅ってやつ、同年代の子たち集めてみんなで海外体験しようよ~みたいなやつだったんだけど(どうでも良いけどこれだんなも参加してたらしい。でも同地域出身者なのにまるで覚えがないもんだから、同趣旨の別のツアーに参加してたんじゃないかと勝手に思ってる)、しっかり幽白友達作ってきて、彼女とはその後ちょっぴり長い付き合いになるのであった……。

 話を戻して、1週間の旅でWJに触れられず、早く幽白読みたいな~とワクテカで自宅に戻ってきて、今回も刃霧さん出てるはずだよね!(幽助vs刃霧の最中だった)と真っ先に幽白のページを開いて読み進める私の目に飛び込んできたのは、飛影にさっくりと胸を刺される刃霧の図。

 ( ゚Д゚)

 ガチで泣いた、と思う。少なくとも飛影は恨んだ。

 その後猛り狂った私は「飛影めえ~!! 蔵馬に乗り換えてやる!!」と決意。この頃の蔵馬への思い入れは「蔵馬もまあ良いよね」という程度。もういろいろと自分が分からない。

 そして3ヶ月後には立派に、飛影も眼中になく蔵馬にきゃあきゃあ言ってた。若い子の転身の早さって見事よね。

 てか転回点多すぎて、もうオディールのごとくぐりんぐりんとフェッテしてますな。


■本格的にのめる■

 さて、93年の夏休みは続きます。

 母親が大阪出身の自分的には、夏冬といえば大阪行きでした。親戚の家(つか母の実家)には漫画がたくさんあって行くの好きだったんだけど(コブラと孔雀王はこの家で学んだ。のちには諸星大二郎と花輪和一も)。特にこの年の夏の自分的一大ミッションは「アニメイトへ行くこと」。海外旅行で友達になった幽白ファンの子Sちゃんが大阪の子で、当然私よりも情報量が多くて、たしかアニメイトというものがあること、そこには幽白グッズや同人誌がいっぱいあることを教えてくれたと思うんだ。うん、一大ミッションと言いつつあまり記憶がないんだ、すまない(´・ω・`)

 Sちゃんと待ち合わせして……あれ、Sちゃんはキタの子だったのにわざわざ天王寺まで来てくれてたのか、そういえばお父さんが付き添いで来てらした記憶が今初めて蘇って……まあそんで、Sちゃんに連れられて初めてアニメイト体験。いやあまり記憶がないんだけど。

 でまーグッズやら同人誌やらを、お小遣いが許す範囲で買いあさったのでした。当然蔵飛ばっかだったけど、そんなこと当時の私には関係なかった、ともかく幽白であればなんでもよかったんだ。若くて、まだ真っ白、ほんとに真っ白だったから(´;ω;`)ブワッ イマジャヨゴレタオトナダヨ

 幽白のアンソロとか、のちに名作として語り継がれるようになる「鳩の血」(要英訳)もこのときに買ったんじゃなかったかな~。

 でもこの頃はまだ、同人誌も「幽白」の延長として読んでるだけ。カップリングが、とか、特定のキャラが、とかはあまりなかったと思うので、本当の意味で同人にはまっていたわけではなかったような(逆に、それでよく原作とのギャップが気にならなかったもんだと思う……)。ただこのとき買った同人誌の中に、1冊だけ飛蔵本があって、それがちょっと、他の蔵飛本よりも、今で言うところの「萌えた」のは覚えてます。

 これまた今で言うところのキャラソンCD「ミュージックバトル編」もこの夏に発売されたんじゃなかったかと思うんだけど。はまってすぐ、夏、というぐらいの曖昧な記憶しかない。刃霧ショックがでかかったんだろう。

 でもそういうものが発売されてることを知って(発売直後ぐらい)、はるひやさんと即買いに行って、ほんとは予約特典だったんだけど余分に入荷してたからって特典のポスターもらったなー。はしゃぐ私たちを店のおばちゃんがほほえましいまなざしで見ていたのを覚えている。その後もずっとその店で予約購入してたんで、たぶん私たちは「幽白の子たち」として覚えられていたと思う。その店でミュージックバトル編以降、すべてのCDだのLDボックス(笑)だの、全部買った。そりゃあ「幽白の子」に間違いない。

 ちなみにそのおばちゃんはまだその店にいる、んだけど結婚で帰ってきてアリプロ予約しに行くまで10年ほど行かなかったから忘れられてた。べつにいいけど。

 夏が過ぎ、通販申し込んで本読んで同人作家さんに手紙書いて、とかしてたらあっという間に時が過ぎる。Sちゃんとは猛烈に文通中。幽白の話ばっかりで、手紙というか萌え殴り書きのルーズリーフの束が週に2往復ぐらいしてたぞ(笑)。はっ、この頃からすでに長文屋……!

 10月、Sちゃんに誘われてじばしん大阪のイベントに行ったのが、私の初即売会。このときの記憶も薄いんだけど(忘れっぽすぎだ)、このときお初の幽蔵本を、幽蔵と分かって狙って買って、そりゃー何度も読んでたんで、この頃から幽蔵の芽が出てきてたのかもしれません。でもまだまだなんでもいける感じ。だけどどちらかというと蔵馬受けのほうが好きだな~、という程度だったんだろう。

 二次にはまった子の常というのか、もちろん絵も描いてました。最初は原作模写から、だんだんデフォルメへ。

 はるひやさんと語り合い、絵を見せっこし、Sちゃんともさらに萌えを高めあって、もう、この世の春を謳歌ですな。


■はじける■

 93年12月、とうとう二次創作に手を染めてしまいました。ずっと描いてきたのは絵だったのに、なぜか字で。いや、思い浮かんだお話がかなり長いものになりそうだったんで、絵で描くにはすごく時間がかかるからとりあえず文で書き留めておこう、と思ったらしいです。まだ自分で同人活動しようなんて思ってなかったな、本出すなんて自分にはおこがましい! と思ってたはず。

 んで、鳩の血の御大のおかげでこの頃の私は幽助と蔵馬のカップリングがいいな~と思ってたらしいんですが、どっちが上か下かにはそれほど強いこだわりがなく、漫画だったら蔵幽、小説だったら幽蔵、と思ってたらしいです。そこに自分で文書き始めたもんだから、小説だったら幽蔵、が慢性化して、そのまま定着してしまった様子。

 なおこのとき書き始めた処女作は未完でした。この3年後、リライトを試みたんですがそのときもやっぱり未完。まあ初めて書いて、設定も甘かったのに、本にしたら400pにかかると思われる量はそりゃ取り回せないよなと。この話は今でもたまに、リライトできないかと考えるんだけど、いろいろと無茶な設定がいっぱいあったからやっぱ無理ですわ。……世に出してないものだから言うけど、某蔵飛大手さんの作品に非常にインスパイアされた内容でした(笑)。パクリというほどじゃないと思うんだけどね。

 そしてひとたび書き始めたらもう止まらなかった。処女作は未完に終わったけど、書いてるうちにどんどん次の話が書きたくなって、途切れることなく次々と書いてたはずです。でもやっぱり同人活動は考えなかった。自己満足で十分満足してたし、下手な文をひとに見られるのもいやだったみたい。当時の私が目標にしていたのが山田詠美だったんで、エイミーほど書けるようにとは言わない、でも人に見せても恥ずかしくないぐらいのものにはしておかないと、ってのがあって、そりゃあ寸暇を惜しんでごりごり書いてて、もしかしてこの頃書いた人には見せていない話と、今まで本にしてきた話は、分量的に同じくらいなんじゃないかってぐらいなんだけど、まあ人に見せなくて良かったと思います、文体は久美沙織と山田詠美の劣化版で、内容は山岸凉子なんて、カオスきわまりない、見られたもんじゃない。

 ていうか幽白の同人小説書いてるはずなのに、なんでそういうところに目標を設定してたんだ、私は?

 ちなみに、幽助と蔵馬の組み合わせが好きだったんだけど、どちらかというと蔵馬受けの傾向のほうが強かったように思います。んで幽助がお相手だったのは、なんというか……いちばんキャラ的に蔵馬と釣り合うから、という動機だった気がしてしょうがない。飛影はかっこいいけど身長が足りないし(笑)、桑ちゃんは顔がなあ(ひどい)、ってことで、いちばんバランスの良い幽助、と。

 このころ、幽助にはどんな感慨を抱いてたのかな~とがんばって思い出そうとするんだけど、どうもピンとこない……それほど思い入れを持ってはいなかったんじゃないかと。まあ棒扱いってやつ?

 原作の進行はどんな具合だったかな……魔界の扉編が佳境に入ってたと思うんですが。う~ん、年明け、94年の初っぱなのWJで幽助が仙水に殺されたんじゃなかったかな? 大阪に向かうフェリーの中で涙した記憶があります。主人公は生き返る、なんて法則も知らない若い子だったから、当時の私。

 そして劇場版第2弾冥界死闘編も公開され、絶好調で幽白命だった、あれは忘れもしない94年7月12日土曜日だ。なんで忘れないかっていうと、私の誕生日の2日後で、冥界死闘編を見に行った日だったからですよ。田舎の国淡路島は公開された映画をリアルタイムに見られることなんてほとんどなくて、やっとこの頃、冥界死闘編が公開されたわけです。それをバスで1時間かけてはるひやさんと見に行って(ちなみに交通費は2千円近く。淡路は交通事情の関係でバス代高いんだ)、蔵馬の行水シーンがあることをアニメ雑誌で知っていたもんだからしっかり堪能して、私たちの前列に座っていた男子諸君がそのシーンで「おお……!」と声を上げたのも見逃さず楽しんで、幽白グッズを売ってるお店(家の近所にはグッズのお店なかった)でさんざんはっちゃけて、さーて土曜だからWJ買いますか、と購入したWJをバスの中で開いた私。もちろん幽白をいちばん最初に読みたかったけど、なぜか見つからない。あれ、なんでいちばん最後に掲載されてんの? それがなぜかなんて分からなかったあの若かりし頃……。

 幽白は最終回を迎えたわけです。

 ボーゼンとした。そして泣いた。バスの中で、声を殺して泣いた。はるひやさんがどんな反応をしていたかは覚えていない、自分のことで手いっぱいだったから。

 たしか、アニメ雑誌だったかファンロードだったか、それ系の雑誌では「幽白終わるんじゃない?」とかちらほら言われてた気はするんですよね。でもこんな人気絶頂だし終わるはずない! って普通に思ってた。空気読めない子供でした。あはは。

 その後はどうしてたんだったかな……なんにせよ、原作終わったからって燃え上がった炎をすぐに消化できるほど器用でもなく、しっかり幽白ファンでしたけど。持て余した情熱が、ますます同人のほうに向かったんじゃないかな、すんごい勢いで書いてたと思います。

 や、もちろん、他に萌えるものを探したりもしてたけどね。このあとでしばらくはまってたので記憶にあるのは「終わりのないラブソング」と「妖世紀水滸伝」かな。後者はいったい、知っている人はいるんでしょうか(笑)。この主人公、天魁星が猪突猛進熱血系でね、セカンドの天?星がクールビューティでね、もう私のツボそのままだったんですよ(笑)。だからOAVで天?星が佐々木さんだった時は超微妙だったwwwwオレ幽助は攻めだもんwwwwwww

 ところで私、この「猪突猛進熱血系×クールビューティ参謀系」以外のパターンではまったことあるの? って訊かれたんですが、断言します、ないです。私の萌えはこのパターン一択です。バリエーションなるとしたら「今回は受けちゃんの髪が短いぞ、珍しい」とか「今回は平均年齢低いぞ、珍しい」とか、それぐらいかなー。

 よくそんな狭い萌えで20年近く同人と関わっていますね。ははは。

 さて、幽白にはまってから幽白が終わるまでの経緯はこの程度だと思うんですが、私が私になるまでの経緯はまだ終わっていません。お分かりですね? 私にとって幽助はまだ萌えの対象ではないのです。

 なのでもうしばらく駄文が続きます。


■アラカルト■

 その他のエピソードいくつか。

 忘れもしない94年3月15日……どうして若いころの衝撃的な出来事はこうも鮮明に覚えているものなんだろう。いや、周辺情報から日時は割り出してるんですけどね。だからもしかして間違ってても怒らないでね。

 その日、学校に向かいながらも体調が変だという自覚がありました。なんか頭がぼやーっと霞がかかったようでうまく働かない。なんだろう、と思いながら出席した1時間目は生物。おかしい。頭痛がする。なんか熱も出てきた気がする。普段なら、帰れる! 家で同人誌読もう! となるところだったはずだがこの日の私はぜひとも次の時間まで学校にいたかった。だって今日は! ファンロード発売日! 待ちに待った幽白シュミ特号!! ……ファンロード自体分からないひともいるのかな? まあ、そういうヲタ雑誌があるんですよ。で、当時の私はこの雑誌が大好きだったんですよ。

 そして、この日はぜひとも早々に、この雑誌をゲットしちゃいたかったんですよ、この時の私は。だからなんとしても、お店の開く時間まで学校で時間をつぶしたかった。その一念で、1時間目を乗り越えたわけです。

 2時間目は音楽。もう、頭はガンガン、熱は相当高いのが分かるし、関節痛まで出てきて、腰が痛くて痛くて仕方がない。うっかり気を抜くと涙までこぼれそうだったけど、歯をくいしばって耐えたのです、ファンロードのために、ひいては幽白のために!

 で、なんとか2時間目も乗り切って、担任のもとに「帰らせてください~」と言いに行った先で言われたのは、「おい、顔赤いぞ。熱はかってみ」熱はありますよ、だから帰りたいんですよと思いつつも熱を計られると、39度近かった(笑)。そら頭痛もする(笑)。そして私に投げかけられた衝撃の一言は、

「親御さん呼んだるわ」

 ……いいよ! いいってば先生! 帰るから、自力でチャリこいで帰るから! 自力でチャリこいで本屋寄って帰るから! とは言えず、彼が親に連絡するのを泣きそうになりながら見ていたあの日の私……いまだに胸によみがえる悲劇……(笑)。結局父親に連れ帰られまして、家で布団にもぐりこんで泣き寝入りしました(笑)。

 まあ、その日の晩、改めて仕事を終えて帰ってきた父親に連れられて病院行って、その帰りに本屋寄ってもらって、無事に目当てのブツをゲットしたわけですけどね。相変わらず高熱出してる娘のそんな願いを良く聞いたもんだ父。ってかふたりしてしばらく立ち読みしていた件。

 んでこの翌日には緒方さんのミニアルバム「HALF MOON」が発売したんで、それもお願いして買いに行って、熱だしながら歌ってました(笑)。

 1週間寝込みました(笑)。

 上記を読んでもらえたらわかるように、私にも蔵幽がオッケーだった時期があったわけですが、その時期があまりに短すぎたせいか、蔵幽本を買った記憶がほとんどありません。

 ただ、ひとつだけ記憶にあるのが、大阪阿倍野のどっかのお店で中古本のセールやってて、片隅に同人誌も置いてて、そこで蔵幽のエロ小説を買ったなと(笑)。あの頃は年齢規制なんてなかったからあの年齢でも普通にエロ同人買えたんだよなあ、としみじみする内容でした。精読したなあ(笑)。まだ実家にあるのかな~。

 して大阪に行くたびに、足しげくアニメイトに通ってたわけですが。そのたびに同人誌をゲットしていたわけですが。

 1回、大阪の親戚の家にいて、母親に同人誌を見つけられたことがあって(でもほとんど隠してなかったから、母親は私がオタデビューしてたことは当然知ってたと思うんだけど)、部屋に入ると母が同人誌を見ていたということがありました。びびった……鳩の血の御大の健全本で良かった!(笑) 「面白いね」と言ってました。そうでしょー! とはしゃぎたい気持ちを抑えて、「あ、うん……」みたいに返事した(笑)。

 94年中にはインテにも行くようになってたんじゃなかったかなあ。片道1万近くしたけど(当時。今は6千ぐらいかな)、夏冬、あと行けるときはできるだけ行ってた。神戸もたまには行ってたけど、やっぱり大阪のほうが来ているサークルさんが多いじゃないですか、コスには興味なかったんで自然と神戸には行かなくなったっす。てか神戸は一般で1回、サークルで1回しか記憶にないんで、実際は全く言ってなかったのかも。神戸のアニメイトはよく行ったんですがね。

 インテでは毎回3万ぐらい買い物してたような。他ジャンルちょろっと、他カプちょろっと、あとは幽蔵、だったと思うんだけど思い違いだろうか。ともかく毎回手がちぎれそうなぐらい本買ってたなあ。この頃を思い出すと何よりも、よくもそんなに買えるだけの本があったなということと、どこからその金作ってたんだよということが不思議です。別にたくさん小遣いもらってたわけじゃなかったからさ。一生懸命貯めてたんだろうね。

 タイミングは忘れましたが、グッズのお店が近所(チャリ圏内、という意)ができて、はるひやさんと足しげく通ったなあと。もう幽白グッズばっかりね! ごっそりね! 今も昔もキャラクターグッズがあまり好きでなくて、まず買わないんですが(だって保存に困るじゃない)、だから幽白グッズに関しては最初で最後のはっちゃけだったなあと。グッズもポスターも片っ端から集めてた気がします、カードダスは300枚ぐらいあったなあ。今も全部実家の私の部屋に残ってます。捨てても未練はないんだけどね……幽白にはまってる間は、とか思ってたらこんな歳月が経っちゃった。まあ忠誠心の証ですな。

 んでこの時期は部屋の至る所に幽白ポスターべったべたに貼りまくっててねえ。蔵馬と飛影の等身大ポスターもあったなあ。そんで、「四面の部屋」って知ってます? 部屋の四面(全部の壁、という意味だと思う)に写真を貼ってあったら、入ってきた霊が出ていくことができなくなって、霊のたまり場になる、そういう部屋のことだってどっかの心霊漫画で読んだんだけど、もしそれがアニメのポスターにも適用されるなら、私の部屋は完全に四面の部屋でしたよ(笑)。そしてポスターのせいでこの頃、軽く視線恐怖だった(笑)。

 そういえば、幽白のライブってのがあったのをご存じの方ってどれぐらいおられるんでしょう? なんかネットで話題にされてるところを見たことなくて、あれは私の思い込みなのかしらとたまに疑ってしまうんだけど。でも直後のアニメ雑誌にはそれに関する投稿があったと記憶してるし、金田さんが「私も行ったよ」って言っておられたと思うんで、たしかにあったんだよ。うん、あったはず。

 まあね、ライブあったんですよライブ。CD買ったら応募券が付いてて、抽選に当たったら行ける、って形だったと思う。でもたしか4回あったうち3回当選して(? 3回で2回だったか?)、それが全部はるひやさんと一緒だったはずなんで、実は応募者少ないのかなって当時から思ってた。でも会場はファンであふれかえってたけどねえ。たしか大阪は吹田の……万博記念公園とかそのあたりでやらなかったかな。とにかくすぐ近くに民族博物館があったのよ。だって、父に連れて行ってもらったんだけど、初めてのライブの後に、私たちはそれどころじゃないっつーのに父が行きたいって言って連れて行かれて、でも興奮冷めやらずにはるひやさんと展示物の間でくりくり踊ってた記憶があるんだ(お客さんはほとんどいなかったから大丈夫)。

 いまさらレポれるほどの記憶はないんで、詳しくは書かないけど、メイン4人の声優さんたちが来て、トークしたりキャラソンやOPED歌ったりしたんだよ。緒方さんが髪に薔薇を仕込んでていいとこでさっと出して客席に投げたってのは今も語り草のはず……はず!!

 同人活動を始めたのは97年。3/20のインテでデビューだったと思います。二次創作始めて4年、いつまでもでもでもだってで活動を始めない私(勇気がなかったんだと思う)を、友達が「私も一緒にやるから!」と背中を押してくれてのやっとのデビュー。だから最初、螢雪時代は2人サークルだったんですよ。まあこの友達は2本ぐらいマンが描いた後はFOしていきましたが(笑)。後押ししてくれたことは本当に感謝してる~。

 螢雪第1冊目の本は内容があまりにあれで実は何本か再録もしていない話があるんですけど、今も読んでくれてる読み手さんであの本を持っていそうな方に2人ぐらい心当たりがある……でもあえては聞かない……。

 ちなみに当初は、5年ぐらいサークル活動すれば書きたいこと全部書けるかな、とか思ってました。おかげでまんまと幽蔵サークル14年目です。今でも、つか事あるごとに、あと5年ぐらい、と思ってるこの10年ほどです。

 そういえば、幽白にはまってすぐ描き始めた絵は、活動を始めてからもしばらくは描いていました。って言ったらみずきさんが「ペーパーにも絵をのせてましたよね」っておっしゃったから背筋が寒くなったのは先日でしたがそれはいいとして。そう、細々と描いてはいたんですね。活動始める前だけど、文通(笑)してたひとから「幽白本出すから漫画描いて」って言われて1本漫画描いたこともあるんだぜ。原稿送ってからそのひとは音信不通になって、その本が発行されたかは分からず、当然原稿も手元になくて、どんなこと書いたかも覚えてないけど(笑)。あと、自分用の便箋とかも作って使ってました。ほら同人便箋って絵がメインで書くとこ少ないもんばっかだったからさ書くところメインのやつがほしいなって思ってさ昔から長文屋だったからさ。

 でもこの頃にはしっかり字のほうにはまって、絵は手遊びみたいな感じだったかな。

 だから……時制がちょっと前後するんだけど、次の大きな転回点となった「心身症の犬たち」って本を出した時、当時連載始まったばかりだったハンターの、ゴンをペーパーに描いたんですね。そしたら、「心身症」を読んでくれた方から手紙もらって、そこに、「本面白かった、でも絵も素敵だから便箋出してくれたら買いたいな」と書いてあったんですね。とてもありがたいお言葉だ。でもこの「心身症」という本、私にとってはとても充実感のある本、幽蔵の素晴らしさと、字を書くということの面白さを、深く私に焼き付けた本でした。そんな本を出して、悦に浸っていた(笑)ところに、あくまで手遊びであるところの絵のほうを褒められて、まあ今考えればこのお手紙をくれた方は当時の私よりまだ若い印象だったし、それに心身症自体がかなり難しい話だと思うんでそらそういう反応もあってしかるべきだとは思うんだけど、まあ若かった私は発奮しまして、もう絵は描かない! 字一本に絞る! といきり立って、で、今があるわけです。ニ頭身の落書きすら描いてないってことはさすがにないけど、だからそれ以来絵といえるほどの絵は描いてません。


■世界は変わるよ何度でも■

 刃霧が飛影に刺されて以来蔵馬ファンだった私ですが、さくさくと幽蔵なお話、楽園シリーズを書いていました。でも楽園零を見ると幽助が弱いでしょ。幽助にはまだ深い執着を抱いていなかった、蔵馬を書くためのお話と、幽助だったんだろうな、と今振り返るに思います。

 でも、98年6月、ふいに気付いたんですね、幽助というキャラの境遇の興味深さに。この頃心理学にはまってて、フロイトとか読んでた私は、彼の家庭環境にガツーンときたらしく、最終回で登場する彼の父親と温子さん、という角度から幽助の個性を読み解こうと試みるわけです。この頃、私の良い話相手になってくれたのが、楽園弐に無理やり載せた(笑)対談のお相手の真樹子ちゃん。彼女は幽白は知っているものの同人には興味がなく、幽蔵にも当然興味がなく、ただ私が書く話が面白いというだけで私の幽助話の相手になってくれた人でした。ってかそんなひと相手にコアな話をするな、オレ(笑)。でも彼女は同人、幽白、幽蔵の外側にいるがゆえに、いろんな角度で私に質問を投げかけてくれたので、あの頃の私にはとても貴重な人でした。6月の下校時、あっつい中、郵便局の前で延々彼女に幽助の話聞かせてたな……。

 そして書いたのが「心身症の犬たち」。この本以前は物語もキャラクターも、ただのフィーリングで、なんとなく書きたいことをなんとなく書いてたと思うんだけど、この本で初めて、論理的に考えたことを、話として表現したい、と思って書いたんだと思うんです。だからこの本は、内容的には稚拙だけども、私にとってとても思い出も思い入れも深くて、最大の転機になったと思ってます。

 と、新たに見出した方向性に非常に満足かつ今後に対して高揚してたもんで、「絵を描いてくれ」って言われてキィッてなったんですな(笑)。

 ここで幽助に思い入れを見出して、ぐっと彼のことが好きになったけど、でもまだ蔵馬>>>幽助でした。まあそんなに一気に逆転しないよね。って私が言っても説得力ないんだけど。

 ……そうか、まだ幽助のほうが下なのか(体位的にではなく)。

 じゃあもう少し書きます。

 話は少しそれますが、98年といえばインターネッツを始める人が増えてきた頃ですね。自分的には大阪で蔵馬受オンリーがあった思い出深い年でもありますが(笑)。私は99年の始めごろからちょこちょことネットのぞいてましたが、自分でサイトを作るという発想まではありませんでした。サイトの作り方とか想像もつかなかったし。私、保守的なんですたぶん。

 でもこのときとっても仲の良かった友達、私にスピナーを教えてくれて、案の定というか堂北に転んだ私に一緒に本出そういっていってくれたひとが、すんごくネットにはまってて、そこで徐々に仕込まれていったのかもしれません。私的には反発してたと思うんだけど、それも興味の裏返しだったのかも? どうでもいいですが彼女とは毎晩のように電話で萌え話してて、電話代が3万/月とかいったりしてました。今はスカイプがあって幸せよねえ。

 この元相方さんとはいろいろあって2000年はじめに仲たがいして、んで毎晩彼女と話していた時間が宙に浮いた私は暇で仕方なくて、ネットに割く時間が増えて、なんかのはずみで素材屋さんのサイト行って、そしたら素敵な素材がいっぱい! この素材使ってサイト作ってみたい! と猛烈にいきり立って、即本買ってきてサイト作ったんだったっけ。自分の立場的にまあ幽蔵サイトかな、展示物は過去に書いたもん置いとけばいいや、みたいな。幽蔵萌えを語りたいとか作品を公開したいとかないんかね、このひとは。んでそんなだから初期の私は改装厨でした(笑)。素敵な素材見つけたらいてもたってもいられなくなってたな~。

 まあそんなサイト開設のいきさつ。

 で、そのように、同人活動をしつつネット活動をしつつ、そんな日々の中で、幽助の株がじりじりと上がってきたんでしょうね。

 幽助と蔵馬の好き度が逆転した、と思ったタイミングは私にはありません。なんとなく、ある日気づいたら幽助>蔵馬になってたんだと思う。書いたものの記録を見てたら、02年夏の「夏花」あたりではたぶん、当人は認めてないものの幽助に相当思い入れてると思います、この頃「幽助最低な男だ」とか言ってたはずだから(笑)。

 今では幽助は自分のツボストライク、現実の男の好みにまで影響を与えている始末です。最初は自分的にはあんなに影が薄かった彼なのに、こんなになっちゃうなんてほんとに不思議。

 そう、私はとても不思議なんですが、みなさんよく最初に好きになったキャラをずっと好きでいられるなと……私が移り変わりすぎてるんでしょうか。いやだって、人格見形成の頃からだもん、しょうがないよね?

 それにしても、もしこんなふうに移り変わってなかったら、特に、刃霧に転んで「飛影め蔵馬に寝返ってやる」になってなかったら、私はどんなもの書いてたんだろう? まさか飛蔵とか? 想像付きません。

 そんなふうに、幽白に転び、幽助で落ち着いた私の歴史でした。

 むしろ幽助に深入りしてからのほうが、「オレ始まった!」の気持ちが強いので、歴史は変化し続けている、と感じていますが。


 にしても、今でこそこんなふてぶてしい字書きな私ですが、ひとに歴史ありってやつですか、私にも純情な時期がありました。てかサイト始めるまでぐらいはもう相当に純情だと思いますね、黒歴史も多いけど。いやネット始めてからしばらくだって黒歴史まみれだけど。自分的にはふてぶてしいのはこの5、6年ぐらいだと思っとります。いろいろ体験して、人間って図太くなるのよ、ホホホ。

 しかし浮気も多々やりつつ結局ずっと幽白にいる私、幽白って斜陽ジャンルなのに若い方も時々は入ってこられるじゃないですか、中高生の方とか。こういう方は一体どういう経緯で幽白にはまるんだろうと気になりますが、でも自分ってこの方たちの年齢より長い時間、幽白を知ってて幽蔵のファンなんだなーと思うと、なんというかまぶしくって涙が出ます。私ってなんて地縛霊。

 でも良いんです。幽白が形成してくれた今の自分のことが、私は好きです。

 そして人生のイベントの大半を幽白とともに過ごし、あまつさえ人の親にまでなっちゃいましたが、まだまだ幽白ファンです。先のことは分からないけど、多分一生好きです。

 幽白、幽蔵、トガシ、幸せをありがとう。今後ともよしなに。



 長々とお疲れ様でした。

 

2011/03/29のブログの記事より転載

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