空色ーてんじきー 友情編後半


 彼らの放課後の勉強会は、テストが始まるまで、日曜を除くほぼ連日続けられた。初回以降、螢子がその席に加わることはなく、なぜかと問うと、「邪魔しちゃ悪い気がして」と屈託がない。

 勉強のためではなく、秀一と過ごす時間がなんとなく居心地が良くて、秀一に付き合っているような形の勉強会だったが、秀一の弁舌はこのような場でも冴えを見せ、見るのもいやだった数字の羅列が気付けばそれほど嫌うものでもなくなっている。長く読んでいられなかった文章が、問題用の例文ていどなら読んでいられるようになった。秀一の勉強の教え方は小難しいところがなく、嫌味でもなく、秀一本人がそうであるように、幽助の中にするりと入りこんでくるようだ。

 たわむれに言ってみた。

「おまえ、オレのこと、自分と同じような秀才クンにしようと思ってんの?」

 秀一は笑ったが、戯れているようではなかった。

「勉強することにはこだわりはないよ、オレは幽助といたいだけ。幽助がいやだっていうのなら、勉強なんてやめてふたりで遊びに行こうよ」

 秀一の物言いには時折、幽助のほうが面食らう。なにをどう返答するか戸惑ったあと、いや、テスト前だし、せっかくだし、とかなんとかもぐもぐ言って、その話は終わりになった。

 このひとに照れはないのだろうか、なぜこんなに、まるであっさりと、幽助への好意を口に出せるのだろう。そのことに気を取られて、しばらく気もそぞろで、秀一が教えてくれることがまるきり頭に入らず、秀一に迷惑をかけた。

 7月に入り、テストが始まった。

 テストをそもそも放棄することの多かった幽助だが、今回は一日目の一限目から出席していた。せっかく秀一が教師役を買って出てくれたのだし、たまにはこんな気まぐれを起こしてみるのも良いか、と、まるでふつうの生徒のように登校してみたのだ。そんな日に限って空模様が思わしくなく、湿度が高いことには気が滅入ったが、この際だ、妥協しておこう。

 テストに関しては、それなりの手応えがあったように思う。少なくとも以前のように、用紙すべてが白紙であったり、あるいは用紙が落書きで埋まったり、そのようなことにはならなかった。その解答が正しいかどうかはともかく、そこそこの解答欄が埋められたのではないか。そのことについては、なんだか嬉しかった。

 その嬉しさを早く秀一に伝えたいと思ったが、今日は彼らはいっしょには帰っていない。あとで秀一が幽助の家に来ることになっているから、あえて帰る時間まで合わせなくとも良いだろう。帰り際にのぞいた教室で、螢子がクラスメートにつかまってさっきのテストや明日のテストについて質問ぜめにあっていたように、秀一もクラスメートに取り囲まれている様子が目に浮かぶようだった。そしてそんな秀一が個別授業まで開いてくれるのは自分に対してだけなのだ、と思うと、なにか誇らしいようなもので胸がふくらむのだった。

 良い気分で歩いていた彼は、前を歩いているふたりの男子生徒に特に気をとめることもなかったのだが、そのふたりの会話の合間に『南野』という単語を聞き取って興味を持った。聞き耳を立てた。

「……また今回も南野と海藤のワンツーフィニッシュで決まり、なのかね。誰かあいつらの牙城を崩せよなー」

「南野の頭がほしいよ、ほんと。おれ今回、物理マジやべーって。南野、あいつ塾とか行ってんのかなあ」

「行ってないらしいぜ。前に聞いたことある。家でも勉強ってほとんどやってないらしいし」

「マジで? 神様不公平すぎだっつの! おれにも南野の頭をくれー。でなきゃ南野をおれ専属の家庭教師にぃ」

「専属ってなんかヤラシー響き。しかも南野だし」

 表情は見えなかったが、ふたりは肩をすくめるような笑い方をした。

「そういえばさ、知ってるかよ? 南野が浦飯とつるんでるって」

「知ってる。いっしょに帰ってたりするんだろ。なんであのふたりがつるむわけ? 意味わかんねえ」

「接点ねえよな、ガッコのトップと底辺じゃん? つりあわねえだろ」

「あれだ、どうせ浦飯が南野を利用してんじゃねえの、テストの替え玉は無理でも、ヤマ張らせるとか。大不良サマでも退学は怖いんかね」

「浦飯がつきまとってるんだよな、絶対。南野ってあんなだしさ」

 ふたりは肩をつつきあった。

「かわいそうだよなー南野が。どうにかなんねえかな?」

「おれらだけでどうにかするのは無理だけどさ、人数集めてさ、十人、や、三〇人ぐらいさ。んで浦飯にガツンと言ってみるってのは、どうかね。三〇人いりゃさ、浦飯もさすがにびびらね?」

「そうだなあ……声かけてみっか?」

 さも妙案を思いついたかのように嬉しげに計画を練り上げてゆくふたりを幽助は、殴ろうと思えば殴ることができた。実際、彼らのやりとりを聞きながら彼のこぶしは、熱く燃え上がりつつあったのだ。なぎ倒してしまいたかった、今すぐやつらを、この目障りな連中を自分の視界から排除してしまえばどんなにか爽快だろうと、思わずにはいられなかった。しかしそうはしなかった。それは、彼の理性の呼び声がこぶしに届いたからではなくて、熱く熱をはらむこぶしとは裏腹に彼の心は、つめたく凍てついていたからだ。こころが凍えてしまっているせいでこぶしまでが、動かそうとしてもどうにも動こうとしなかったからだ。足だけはまるで何事も起こっていないかのように単調な歩みを刻んでいる、しかし彼の体は。彼のこころは。

 腹の奥底からなにかがせりあがってくる気がした。どす黒くてどろどろとした、なにかいやなにおいを放つものだ。喉元までせりあがってきたそれを、彼はつとめて吐き出さぬよう押し殺した。歯をくいしばり唇を強く結んだ。てのひらに食い込んだ爪は皮膚を破ったかもしれない。けれどなにも、感じなかった。感じることを放棄していた。今にも排出されそうな醜い嘔吐をこらえるだけで、彼はすでに手一杯なのだった。

 暗く分厚い雲のたれこめていた空からとうとう、一滴、二滴、やがて無数に、雨粒が降り注いだ。彼の体を打った。しかし彼は打ち付ける雨の感触にも、しばらくのあいだ、気付けずにいたのだった。

 午後、しどとに振る雨のなか、秀一が幽助宅にやってきた。いつもの手製の弁当は持っておらず、かわりに料理の材料をどっさりと抱えて、どうやら幽助宅で昼食を作ろうという魂胆らしい。

 他人の家の勝手の悪い台所ながら秀一が手早く作ったものは、ツナのチャーハンに中華風味噌スープ、アスパラのグリーンサラダ。美味だった、おそらく美味だったに違いない。しかし幽助には、砂をかむ味しかしなかった。秀一はきっといつものような甘い笑いを笑んでいるのだろう、しかし今の幽助は秀一の顔を直視できない。あのふたりは言っていた、釣り合わない、と。やっぱり、そうだよな。こんなになんでもできて頭が良いやつが、幽助のような人間、皆からの嫌われもの、社会のはみ出しもの、そんなのとつるんでたら当然、そう見えるよな。

 いつまでも口を閉ざしている幽助に秀一は敏感にもすぐに気付いたようだった。最初はなにも言わずいつもどおりだったが、やがて、幽助どうしたの、なにかあったの、と問いかけてきた。その質問は予想通りのものだったので幽助は、別になにも、と答えてから、今日のテストのことを切り出した。答えは合ってるか分かんないけど、けっこう解答できたと思う、おまえに教えてもらったおかげかな、と言うと秀一は嬉しそうだった。嬉しそうなそぶりでおそらく、幽助が話を逸らしたことを見逃してくれた。

 その後は、彼らのここのところの放課後がずっとそうだったように、静かな勉強の時間だった。夜の帰り際、秀一は、明日はどうしよう、と問うてきたが、明後日、最終日の科目は国語と選択科目でとくに見てもらうような科目でもないからべつにいい、大丈夫、と言うと、どこか硬い表情を見せたものの食い下がりはしなかった。

 近所のコンビニで買ってきた弁当を食べて、その日は早々にベッドにもぐり込んだ。電気を消してテレビも消して、部屋が静まりかえってしまうと、まだ止む気配のない雨音が彼を押し包むのだった。


 翌日、降り止まない雨のなか、テストはつつがなく終わったように思う。

 その日も最後までテストを受けた幽助を、遠巻きに、うさんくさそうに見るクラスメートたちを無視してそそくさと教室を出た。早足で校門へ向かったのだがそこには数人の生徒がたまっていて、そのなかには秀一がいた。幽助を見つけるとさしている傘を軽く上げて合図して見せた。雨で視界は良くないものの、その笑顔はやわらかく、昨日からキリキリと緊張し続けていた幽助の神経はなごみかかったがしかし、彼は同時に、気付いてしまったのだ。秀一の脇にいる数人の男子生徒たちが皆、いっせいに、幽助に不穏なまなざしを向けたことに。

 なごみかかった心がたちまちひび割れた。秀一から顔を背け、さらに秀一に向けて傘を深く傾けると、いよいよ歩みを早めた。そんな幽助に秀一が話し掛けようとしたものの、男子生徒たちが秀一に呼びかけて遮った、そのような光景は、傘で視界を狭められた幽助の目には映らなかった。

 校門を出ると一目散に走り出した。水たまりの水を蹴立てて、雨に打たれることもかまわず、しまいには傘をさすことも忘れて、ひたすら走る。逃げるようだった、否、彼は逃げたのだ。くやしかった。いままで彼は、他人の視線や言葉に傷んだことはなかった、陰口や中傷、さげすみのまなざし、それらは幼いころから彼とともにあったものだからだ。いまさらそれらが彼になんらかの影響を及ぼすことなどなかったはずだ。しかしいま、彼のこころは傷んでしまった。秀一と自分に関して聞こえてくる陰口、秀一とともにいてよりいっそう彼にそそがれる白い目。それらに気付かされる、秀一といてはいけないのだということ。秀一とは住む世界が違うのだということ。彼らはあまりにもかけはなれた一対であったということ。

 分かっていたはずのことがいまさら、彼に対して牙を剥き、なによりも、それに屈したおのれ自信がくやしかった。くやしさに立ち向かう勇気もなく、彼は逃げ出したのだった。

 幽助、と後方から呼ぶ声が聞こえたかもしれない。しかし彼は振り返ることもなく走り続けた。

 秀一は家に来たようだった。ようだった、というのは、幽助がぬれねずみになって帰ってきて、シャワーも浴びずに着替えもせずに自室でうずくまっていたら、玄関のチャイムが鳴り、直感的に秀一だと思った。思ったが、どれだけチャイムが鳴らされても彼はそれに応じなかった。切れ切れのチャイムが鳴り続けて三〇分ほども経ったろうか、とうとうチャイムが鳴りやんだ。それでもただ、その場にうずくまっていた。

 そうしたまま、いったいどれくらいの時間が経っただろう、彼はのろのろと身を起こすとシャワーを浴び、家を出た。行きつけのパチンコ屋にしけ込んだ。考えてみればパチンコ屋の独特の喧噪と、こもった空気は、ずいぶん久しぶりだった。秀一と親しくするようになってから彼は、パチンコやゲームセンター、喧嘩といった悪習からは遠ざかっていたのだった。そんなことで時間をつぶさずとも、となりには秀一がいた。ふたりでいれば、時間はあっという間に過ぎた。

 椅子の感触もなつかしく席についたが、この数週間で勘が鈍りでもしたか、気付けば財布は空になっていた。

 テスト最終日も無事に過ぎていった。

 秀一との勉強の成果があるていどは出ているはずだが、さて。今回、赤点はいくつほどあるのだろうか。はたして無事、中等部を卒業できるだろうか? 卒業に足りなければ足りないでも良い、よしんば留年になろうと、それでも彼はかまわないのだ。学校に執着はない、今すぐ学校をやめて働きはじめても良いと思っている。もちろん彼の年齢から、良い職にありつくのは難しかろうが、それならそれで彼独自のつてをたどればすむ話だ。学校をやめること自体は、入学した当時から、ごく身近に感じる構図であったのだ。

 それよりも彼は、昨日のことばかり考えていた。昨日、秀一から逃げ出したことばかり考えていた。

 顔を見るなり背を向けた幽助に、そして家に来た秀一に対して居留守を使った幽助に(このとき、幽助が家にいることに秀一が気付いていたかどうかは定かではないが)、秀一は何を思っただろう。幽助を嫌いになってしまっただろうか。もう、友達ではない、と?

 それでもまあ、良いか、と呟いてみる。なにせ彼は嫌われることに慣れているのだから。白い目で彼を見る人間など、すでに何人もいるのだから。そんな人間がまたひとり、増えるだけではないか。幸い、もうじき夏休みだ、顔を合わすことのない九〇日という時間は彼らの関係をもとの、まだ知り合う前だったふたりのものに戻すに違いない。彼はさばさばと考える。なによりも、彼が秀一とともにいても、秀一にとって良いことなどありはしない。彼は秀一になにもしてやれない。

 それですべてに整理をつけてしまうつもりでいたのに、彼の足取りは重かった。視線が上がらず足もとばかり見つめてしまう、その凝視するコンクリートのなかに、ずぶずぶと沈み込んでゆきそうになる。もう秀一のことは頭から追い出してしまおうと思いながら、考えるのは秀一のことばかりだ。ひと月前、梅雨に入る直前の、日差しが照りつけるあのひどく暑い日、秀一が彼に声を掛けてきたときのこと、それからいままでのことを、思い出すともなく思い出している。……ただただ驚くばかりだった、秀一の存在を知ってからまだ、ひと月しか経っていないのだ。たったひと月だというのに秀一は、正確には秀一の不在は、彼の心をこんなにも重くする。

 のろのろといつもの帰途をたどっていた。じき商店街を抜ける、というところで、薄暗く茫洋とした意識にふと引っ掛かってきた光景がある。

 それは見慣れたひとの後ろ姿だ、南野秀一のひとつにまとめられた長い髪が、あのひとにはらしくない不格好な動作に乱されかかっている。秀一の周囲には体格の良い男たちが数人いて、秀一を取り囲むような動きをし、彼らのなかにいると細身の秀一は少女のようにちっぽけだ。累ヶ淵の連中に路地に引き込まれる秀一のたよりなげな背中には、既視感があった。

 見ているあいだに、秀一の姿は路地に消えた。何か考えているひまなどない、あわてて後を追った。

 路地の奥、人間のひしめきあっているなかに幽助は突っ込んでいった。浦飯だ、盟王の浦飯だ、という声があがるなか、彼は低く、しかし周囲に響き渡る声で怒号する、

「オレのツレだぞ。わかってんのか、てめえら!」

 いろめきたつ連中を間髪入れずになぎ倒す。こぶしをふるうのは久しぶりだった。しばらく使われることのなかったこぶしは多少緩んでおり、いささかの痛みを彼に伝えてはくるものの、気にならない。開放感があったのだ、それはかかってくる連中をひとり蹴散らすごとにいや増した。嬉しかったのだ、彼には秀一にしてやれることがある。だれしもが眉をひそめるこの暴力で、けれど彼は、秀一を守ってやれる。

 数分で男たちは地に伏した。さすがに少々乱れた息を隠しながら、秀一の腕を掴んで足早にその場を去った。

 道々の小さな公園までやってきてようやく、幽助は足を止めた。手を放す。様子も見ずに引きずってきた秀一はかたい表情で幽助を見下ろしている。さっきまでの昂揚感が萎えしぼんでゆくのが分かった。言葉を忘れてうつむいてしまった彼に、秀一のきつく張りつめたような声がおおいかぶさってくる。

「とても簡単に、ひとを殴るんだね」

 いつもものやわらかに話す秀一の、聞いたことのないような強い声だった。幽助は動けなくなる。彼らの接点はもう、消失してしまったのだろうか?

「オレはあなたの暴力を否定する気はないよ。その暴力があなたをいままで支えてきた、よりどころのようなものであることはよく分かるし、それを使うことできっとあなたは、いままで生きながらえてきたんだろうね。でも、いつまでもそのままではいかないよ。破綻は近いのじゃないかな。オレ、さっきのあなたを見てて思ったんだよ、あなたはね、幽助、ひとを殴りながらまるで、自分を殴ってくれって言ってるみたいだった。見ていてつらかったよ」

 うつむいた彼を秀一がのぞき込んできた。そのまなざしは、幽助が想像していたものとは違う、いたずらを込めたような目の色だ。口許が笑っている。

「オレ、怒ってる。怒ってるというか、悲しかった。無視されるなんて、びっくりした。友達だと思ってたのに」

「ご、ごめん!」

 『友達』という言葉に胸を突かれたように、幽助は急き込んだ。

「ごめん!」

 そのままふたりで見つめあった。秀一が怒っているわけではないことはもう分かっていたので、幽助はためらうことなく秀一を見つめた。秀一も見つめ返してくる。ふだんは微笑に和らいでいる秀一の目は実は、幽助のそれほどに強いのだ。ふたりはやがて吹き出した。秀一に促されて藤棚の下のベンチに座って、脇の自動販売機で買った炭酸飲料を飲みながら、やはり笑いあっていた。

「なんなんだろうね、これ。オレたちって。ふたりとも、いままでまともに友達なんていなかった同士、しょうがないのかな。ぎこちないけど、ねえ」

 やはり笑っている秀一の表情は透明だ、なんのわだかまりも残してはいない。

「まあ、ゆっくり、ゆっくりいきましょう」

 そんな秀一の横顔に、言葉を投げかけてみた。

「次の日曜、空いてる?」

 と。

「……メシでもおごるし」

 秀一は目を丸くする。

「やだな。やめてよ。そういう、変な気をまわすのは。遊んでくれるなら、喜んでお受けするからさ。……そうだね、新しい靴がほしいんだけど、付き合ってくれる?」

「おう」

 ふたりはまた顔を見合わせて笑った。まだふたりともがいまの距離感になじんでおらず、休みの日に誰かと遊びに行く、ということがありありと不自然で、そんな不自然なことをけんめいに実行しようとしていることがおかしくてしょうがなかった。休日に私服の秀一と肩をならべて歩く自分を想像して幽助は、くすぐったさに身をすくめてしまいそうだ。

 そこにさらに秀一が、

「嬉しいねえ。幽助とお出掛けかあ。楽しみだねえ」

 と呟きをもらすものだから、ますますいてもたってもいられないような心持ちになってしまった。

 

 期末考査が終わってしまっても、勉学に対して意欲の旺盛な盟王学園は授業の足を止めることはない。教室は空調完備という環境のなか、公立の学校のような授業の短縮期間をもうけることもなく、学期末までできるかぎり教科書を進めようとする。昼間の校舎はいつも通りしんと静まりかえっている。そして、秀一との昼食の習慣も、あいかわらずだ。

 ただ、周囲の幽助に向ける目が少し変わったように、彼は肌で感じていた。嫌悪や侮蔑の目であった以前とは違う、それはなにか、いままで彼が向けられたことのないもののように思えた。

 その変化がなにに由来するものなのかを教えてくれたのは螢子である。「南野先輩がね」と、実は幽助にはなかば予想がついていた、少なくとも要因のひとつはこのひとにあるだろうと目星をつけていたひとのことを、螢子は言った。

「クラブの先輩から聞いたんだけど。南野先輩、あんたのこと『友達宣言』したんだって。クラスのひと何人かに、「浦飯幽助は友達だ、友達を悪く言われて黙ってるつもりはない」って、言ったんだって。本気で怒ってるみたいだったって聞いたよ、先輩っていつもにこにこしてるやさしいひとなのに、そのときは怖いぐらいの顔してたって」

 また胸がむずがゆくなるのを感じた。そのくせ表向きでは、ああそうとなんの感動も覚えていないかのように装ってしまう幽助に、螢子は言いつのった。もう以前のように、声をひそめるようなことを彼女はしようとはしなかった。

「南野先輩、すごいひとだね。私、先輩に、なんだろ、救われたような気がしてるの。私にはできなかったと思うもの、こういうふうには。私がどれだけあんたをかばって弁護しても、みんなは『幼なじみだから』で片付けちゃうんだよね。ほかのひととは立場が違うから、って。でも先輩は、幼なじみでもなんでもないのにあんたに興味持って、友達になって、まわりに「友達を悪くいうな」なんていってくれて。すごいよ、なかなかできることじゃないよ。ちょっとうらやましい、そんな友達が持てるなんて」

 非常におもはゆい心地で彼女の言葉を聞いた。返答しあぐねているうちに、言いたいことをいってしまってすっきりした表情で、彼女はさっさと引きあげていってしまった。もうすぐ次の授業が始まるのだ。

 放課後、いつものように校門の脇で空を見上げてたたずんでいると、やはりいつものようにちらりちらりと彼を横目に学園の生徒たちが過ぎ去っていく。やはりいままでとは違う種類の気配をはらんだ視線だった。恐れられることにはなれていても、そうでないものを投げかけられることにはなれていない。居心地が悪いのか、それとも背筋を伸ばしたい心地なのか、自分自身でも分からなかった。やがて秀一が小走りでやっていて、ふたりで肩を並べて歩きはじめると、視線の気配は倍加した。幽助は内心で、勘弁しろよと呟いたが、秀一はいつものように涼しい顔だ。

「なんか、見られちゃってるよね、オレたち」

「おまえ、なんか、言ったんだろ。クラスのやつに」

「ああ。あれね。文句つけられたから、文句つけ返した。それだけ」

「おまえでもそういうことすんのな」

 秀一は、幽助以外のひとのまえではつねに穏和で、ことさらに強く意思を主張することのない、そんなイメージがあった。

「そりゃあ。面白くないことを言われたら、言い返すよ。まあ、滅多にないことだけど」

「おまえでも怒ったりすんのな」

「オレにだって譲れないものはあるからね」

 そしてこのたびは、譲れないもののひとつ、幽助のために怒ったということだ。

 この話はこれで終わって、適当な世間話、昨晩のバラエティ番組から仕入れた小ネタ話や、先日の日曜日にふたりで買い物に行って見つけてきた秀一の靴の履き心地、なにげなく立ち寄ったゲームセンターで見つけた秀一のゲームに対する驚嘆すべき腕前と、こてんぱんに叩きのめされた対戦ゲームへの雪辱戦についてなどをとりとめもなく話していると、ふたりの前に大きな人影が立ちはだかった。こんなふうに自分の前に立つ人間を幽助はひとりしか知らない、桑原だ。そのうしろにはいつものように、名前も知らない三人の弟分。

 思わず、秀一を背後にかばうようにしてふんばった幽助だったが、なにせ身長が違う。桑原の視線は幽助の頭のうえを通りすぎて、秀一に向かっているようだった。桑原は、しばらく秀一を眺めていたがやがて幽助に目をやり、かと思うとまたすぐに秀一に戻して、その動作を何度か繰り返した。

「おまえらってさ、ほんと変な取り合わせだよな」

 少しいやな感じの笑いをした。

「学園一の優等生と、学園一の不良がダチ、なんて、わけわかんねえもんな。南野センパイ、あんた、こいつになにか弱みでも握られてんの? んで、テストのときはごちそうさま、とかさ」

 たちまちいきり立ってこぶしの出そうになった幽助を、秀一が制した。怒りも、気負いのひとつも見せはしない、いつもどおりの柔和な秀一だ。

「そんなに挑発しなくとも、オレはちゃんとお話ししますよ。幽助がオレの弱みを握っておいしい思いをしようとしてる、なんて、本気で言ってます? じゃああなた、そんなのに勝ちたくて勝ちたくてやっきになってるんですか、桑原さん。違うでしょう。あなたの目に幽助は、必死になって勝ちにいきたい、そうする価値のある相手なんじゃないんですか。桑原さんはそういうひとなんじゃないんですか。あと、むやみにひとを貶めてはいけません、自分の価値も落とします」

 桑原は秀一の口上を黙って聞いていたが、いつのまにかさっきの感じの悪いニヤニヤ笑いをひっこめていた。もう秀一と幽助を見比べようとはしなかった。

「あんた、けっこう面白いやつなんだな、南野センパイ。面白いやつが面白いやつ同士でくっついたってことか。浦飯とつるんでるのはしゃくだけど、この学校の生徒(やつ)にしちゃあんた、上等な部類だろうぜ」

 にやりと、さっきとはまったく印象の違う笑いを残して、弟分たちを引き連れ桑原は去っていった。

 幽助は胸のすく思いだった。南野秀一というひとがただの優等生ではないということ、幽助の認めた秀一の突出した性質、その意思性と、一風変わった、けれど筋の通ったものの考え方に、桑原も気付き、認めた。

「おまえってほんと、物怖じしないよな。オレんときもそうだったけどさ、ワルいのとも平気で話すよな」

 秀一は笑った。

「崩した見た目も乱暴な言葉づかいも、小手先の暴力も、みんな結局、ひとりで立つ力や自信のない自我を支えるための松葉杖なんだよ。威圧的な外見で鎧を着込んでるけど、実のところ、鎧の中身はからっぽなんだって、まわりに言いふらしているみたいなものなんだよ。ああいうのは。あなたも含めてね」

「なに。ケンカ売ってんの」

「ちがうよ。そんなんじゃない。……きっとね、ひとより早く自分の人生に向き合ってしまったんだよ、あなたたちはね」

 秀一に抱いている感慨を、幽助はうまく把握することができないでいる。

 秀一を思い浮かべると胸がやさしくなごんだし、実際にその姿を見かけると足取りも軽くはずんだ。気付くと秀一のことを考えていたということが一日に何度もあり、学校に行くと無意識に秀一の姿を探している。秀一の存在が急速に大きくなり、重くなってゆくのが幽助自身、如実に感じ取れた。まだ、心のすべてを見せ、あずけることは、できない。しかし遠からず、いずれそうなってしまうであろうことは容易に想像がついた。秀一は幽助のかけがえのない存在になりつつあるようだ。

 その一方で、危惧の念がないでもない。おのれの心の変化の具合に自分自身、驚くことがある。学校の帰り道の別れぎわ、まだ別れたくない、もう少し、と願う自分、秀一が彼ではない生徒と立ち話をしている姿を見かけたときにわき上がってくる、胸の悪くなるようなどす黒い感じ、それらのものを感じている自分に気付いたとき、そのようなものが自分のなかにあったことにまず驚き、次に懐疑的になる。おのれのこの感情ははたしてまともなものなのか? いささか度を過ごしてはいないか、『友情』としては? 友人への思いとはこんなに強い感慨を伴って、ときにおどろおどろしい悪感情とともに燃えさかるものなのか。ここのところの幽助が毎日まめに学校へ行くのも、ひいては秀一と会うためなのだ。

 螢子にそれとなく打診してみた。

「友達って、どんなカンジのもんなの」

 などと、何気ないふりを装って。

 それでも、ここのところの幽助の心の動きをそこそこの精度で掴み、見てきている彼女としては、思い当たることもあったのだろう、多少意味ありげな目つきをして、

「改めて考えてみたら……なんだろう。友達、かあ。ごくふつうに、意識しなくてもそばにいるもの、かなあ。深く考えて付き合ってるわけじゃないよ、きっと。自然にいっしょにいてるかな、いなかったらちょっと寂しい。いたら楽しい。そんな感じ。でも……でも、もし私が、いままでずっと友達がいなくて、ある日いきなり友達ができたら、たぶんものすごくはまっちゃうと思う。できるだけたくさんいっしょにいて、いっぱい話して、ずっと私のこと見ててほしいって思っちゃう、かもしれない。友達がいないあいだ、ずっと寂しかったはずだから、その分いっしょにいたいと思っちゃう、かもしれない」

 彼女ははればれと笑うと、

「なんか、妬けるよ、ほんというと。でも、はじめての男友達だもんね。嬉しいよね」

 そんなんじゃない、とは、言えなかった。


 期末考査が終わってしまっても、勉学に対して意欲の旺盛な盟王学園は授業の足を止めることはない。教室は空調完備という環境のなか、公立の学校のような授業の短縮期間をもうけることもなく、学期末までできるかぎり教科書を進めようとする。昼間の校舎はいつも通りしんと静まりかえっている。そして、秀一との昼食の習慣も、あいかわらずだ。

 ただ、周囲の幽助に向ける目が少し変わったように、彼は肌で感じていた。嫌悪や侮蔑の目であった以前とは違う、それはなにか、いままで彼が向けられたことのないもののように思えた。

 その変化がなにに由来するものなのかを教えてくれたのは螢子である。「南野先輩がね」と、実は幽助にはなかば予想がついていた、少なくとも要因のひとつはこのひとにあるだろうと目星をつけていたひとのことを、螢子は言った。

「クラブの先輩から聞いたんだけど。南野先輩、あんたのこと『友達宣言』したんだって。クラスのひと何人かに、「浦飯幽助は友達だ、友達を悪く言われて黙ってるつもりはない」って、言ったんだって。本気で怒ってるみたいだったって聞いたよ、先輩っていつもにこにこしてるやさしいひとなのに、そのときは怖いぐらいの顔してたって」

 また胸がむずがゆくなるのを感じた。そのくせ表向きでは、ああそうとなんの感動も覚えていないかのように装ってしまう幽助に、螢子は言いつのった。もう以前のように、声をひそめるようなことを彼女はしようとはしなかった。

「南野先輩、すごいひとだね。私、先輩に、なんだろ、救われたような気がしてるの。私にはできなかったと思うもの、こういうふうには。私がどれだけあんたをかばって弁護しても、みんなは『幼なじみだから』で片付けちゃうんだよね。ほかのひととは立場が違うから、って。でも先輩は、幼なじみでもなんでもないのにあんたに興味持って、友達になって、まわりに「友達を悪くいうな」なんていってくれて。すごいよ、なかなかできることじゃないよ。ちょっとうらやましい、そんな友達が持てるなんて」

 非常におもはゆい心地で彼女の言葉を聞いた。返答しあぐねているうちに、言いたいことをいってしまってすっきりした表情で、彼女はさっさと引きあげていってしまった。もうすぐ次の授業が始まるのだ。

 放課後、いつものように校門の脇で空を見上げてたたずんでいると、やはりいつものようにちらりちらりと彼を横目に学園の生徒たちが過ぎ去っていく。やはりいままでとは違う種類の気配をはらんだ視線だった。恐れられることにはなれていても、そうでないものを投げかけられることにはなれていない。居心地が悪いのか、それとも背筋を伸ばしたい心地なのか、自分自身でも分からなかった。やがて秀一が小走りでやっていて、ふたりで肩を並べて歩きはじめると、視線の気配は倍加した。幽助は内心で、勘弁しろよと呟いたが、秀一はいつものように涼しい顔だ。

「なんか、見られちゃってるよね、オレたち」

「おまえ、なんか、言ったんだろ。クラスのやつに」

「ああ。あれね。文句つけられたから、文句つけ返した。それだけ」

「おまえでもそういうことすんのな」

 秀一は、幽助以外のひとのまえではつねに穏和で、ことさらに強く意思を主張することのない、そんなイメージがあった。

「そりゃあ。面白くないことを言われたら、言い返すよ。まあ、滅多にないことだけど」

「おまえでも怒ったりすんのな」

「オレにだって譲れないものはあるからね」

 そしてこのたびは、譲れないもののひとつ、幽助のために怒ったということだ。

 この話はこれで終わって、適当な世間話、昨晩のバラエティ番組から仕入れた小ネタ話や、先日の日曜日にふたりで買い物に行って見つけてきた秀一の靴の履き心地、なにげなく立ち寄ったゲームセンターで見つけた秀一のゲームに対する驚嘆すべき腕前と、こてんぱんに叩きのめされた対戦ゲームへの雪辱戦についてなどをとりとめもなく話していると、ふたりの前に大きな人影が立ちはだかった。こんなふうに自分の前に立つ人間を幽助はひとりしか知らない、桑原だ。そのうしろにはいつものように、名前も知らない三人の弟分。

 思わず、秀一を背後にかばうようにしてふんばった幽助だったが、なにせ身長が違う。桑原の視線は幽助の頭のうえを通りすぎて、秀一に向かっているようだった。桑原は、しばらく秀一を眺めていたがやがて幽助に目をやり、かと思うとまたすぐに秀一に戻して、その動作を何度か繰り返した。

「おまえらってさ、ほんと変な取り合わせだよな」

 少しいやな感じの笑いをした。

「学園一の優等生と、学園一の不良がダチ、なんて、わけわかんねえもんな。南野センパイ、あんた、こいつになにか弱みでも握られてんの? んで、テストのときはごちそうさま、とかさ」

 たちまちいきり立ってこぶしの出そうになった幽助を、秀一が制した。怒りも、気負いのひとつも見せはしない、いつもどおりの柔和な秀一だ。

「そんなに挑発しなくとも、オレはちゃんとお話ししますよ。幽助がオレの弱みを握っておいしい思いをしようとしてる、なんて、本気で言ってます? じゃああなた、そんなのに勝ちたくて勝ちたくてやっきになってるんですか、桑原さん。違うでしょう。あなたの目に幽助は、必死になって勝ちにいきたい、そうする価値のある相手なんじゃないんですか。桑原さんはそういうひとなんじゃないんですか。あと、むやみにひとを貶めてはいけません、自分の価値も落とします」

 桑原は秀一の口上を黙って聞いていたが、いつのまにかさっきの感じの悪いニヤニヤ笑いをひっこめていた。もう秀一と幽助を見比べようとはしなかった。

「あんた、けっこう面白いやつなんだな、南野センパイ。面白いやつが面白いやつ同士でくっついたってことか。浦飯とつるんでるのはしゃくだけど、この学校の生徒(やつ)にしちゃあんた、上等な部類だろうぜ」

 にやりと、さっきとはまったく印象の違う笑いを残して、弟分たちを引き連れ桑原は去っていった。

 幽助は胸のすく思いだった。南野秀一というひとがただの優等生ではないということ、幽助の認めた秀一の突出した性質、その意思性と、一風変わった、けれど筋の通ったものの考え方に、桑原も気付き、認めた。

「おまえってほんと、物怖じしないよな。オレんときもそうだったけどさ、ワルいのとも平気で話すよな」

 秀一は笑った。

「崩した見た目も乱暴な言葉づかいも、小手先の暴力も、みんな結局、ひとりで立つ力や自信のない自我を支えるための松葉杖なんだよ。威圧的な外見で鎧を着込んでるけど、実のところ、鎧の中身はからっぽなんだって、まわりに言いふらしているみたいなものなんだよ。ああいうのは。あなたも含めてね」

「なに。ケンカ売ってんの」

「ちがうよ。そんなんじゃない。……きっとね、ひとより早く自分の人生に向き合ってしまったんだよ、あなたたちはね」


 秀一に抱いている感慨を、幽助はうまく把握することができないでいる。

 秀一を思い浮かべると胸がやさしくなごんだし、実際にその姿を見かけると足取りも軽くはずんだ。気付くと秀一のことを考えていたということが一日に何度もあり、学校に行くと無意識に秀一の姿を探している。秀一の存在が急速に大きくなり、重くなってゆくのが幽助自身、如実に感じ取れた。まだ、心のすべてを見せ、あずけることは、できない。しかし遠からず、いずれそうなってしまうであろうことは容易に想像がついた。秀一は幽助のかけがえのない存在になりつつあるようだ。

 その一方で、危惧の念がないでもない。おのれの心の変化の具合に自分自身、驚くことがある。学校の帰り道の別れぎわ、まだ別れたくない、もう少し、と願う自分、秀一が彼ではない生徒と立ち話をしている姿を見かけたときにわき上がってくる、胸の悪くなるようなどす黒い感じ、それらのものを感じている自分に気付いたとき、そのようなものが自分のなかにあったことにまず驚き、次に懐疑的になる。おのれのこの感情ははたしてまともなものなのか? いささか度を過ごしてはいないか、『友情』としては? 友人への思いとはこんなに強い感慨を伴って、ときにおどろおどろしい悪感情とともに燃えさかるものなのか。ここのところの幽助が毎日まめに学校へ行くのも、ひいては秀一と会うためなのだ。

 螢子にそれとなく打診してみた。

「友達って、どんなカンジのもんなの」

 などと、何気ないふりを装って。

 それでも、ここのところの幽助の心の動きをそこそこの精度で掴み、見てきている彼女としては、思い当たることもあったのだろう、多少意味ありげな目つきをして、

「改めて考えてみたら……なんだろう。友達、かあ。ごくふつうに、意識しなくてもそばにいるもの、かなあ。深く考えて付き合ってるわけじゃないよ、きっと。自然にいっしょにいてるかな、いなかったらちょっと寂しい。いたら楽しい。そんな感じ。でも……でも、もし私が、いままでずっと友達がいなくて、ある日いきなり友達ができたら、たぶんものすごくはまっちゃうと思う。できるだけたくさんいっしょにいて、いっぱい話して、ずっと私のこと見ててほしいって思っちゃう、かもしれない。友達がいないあいだ、ずっと寂しかったはずだから、その分いっしょにいたいと思っちゃう、かもしれない」

 彼女ははればれと笑うと、

「なんか、妬けるよ、ほんというと。でも、はじめての男友達だもんね。嬉しいよね」

 そんなんじゃない、とは、言えなかった。

 ゲームセンターの騒音のなかで、格闘ゲームの画面に没頭しているふりをしながら、その実うわの空になっている自分に幽助は気付いている。もうしばらくのあいだ勝ち続けているが、それは単にやりなれたゲームに対する惰性の反応にすぎず、彼の心は実のところ、ここではない別の場所を漂っている。

 先週の日曜、秀一と遊びに行った。駅前で待ち合わせて、電車で二駅も行けばこのあたりでは中心地と呼ばれる街に出る。とくに急ぐ用もなくぶらぶらと歩き回り、店頭に並べられていたスニーカーを秀一が気に入って買い、またぶらぶらと歩き回って大きなゲームセンターに入った。まずは幽助がパチンコで腕をふるってメダルを稼ぎ、メダルケースにあふれるほどのメダルを抱えてふたりはゲーセン内を闊歩した。良いところを見せてやろうという心づもりも多少はあった幽助であるが、逆に秀一に彼が驚かされずにはいられなかった。秀一はメダルゲームで飲み込みの良さを見せ、スロットではおそるべき引きの強さを見せ、対戦式格闘ゲームでは負け知らずだった。どうやっても勝てずに地団駄を踏んだが、なんでも秀一は、格ゲーに関しては自宅でもそうとうにやり込んでいるとのこと、今度ソフトを持って幽助の家に行くよといわれた。秀一は仕上げに、UFOキャッチャーで手のひらサイズのブタのぬいぐるみをふたつ、軽々とつまみ上げて、半分こだといってひとつを幽助にくれた。そのブタはいま、幽助の部屋のテレビの上にちんまりと座っている。そのあと、地元に戻ってきてファミレスで夕食をとって、また遊?に行こうといって別れた。友人と遊ぶという点では特別なことなどなにもない一日、しかし幽助にとってはあまりにいままでと違った日曜だった。ひとと過ごした日曜など、彼はもうずっと記憶にないのだ。秀一と別れて家に帰り、眠りにつくまで彼はずっと上機嫌だった。

 いま幽助は、ゲームに没頭するふりをして先週のことを思い出している。あのときはこんなではなかった、ゲーム画面に集中できた。ゲームのキャラクターの姿をかりて秀一が仕掛けてくる攻撃は、一瞬たりとも気が抜けなかった。しかしいまはそうではない。午前中はパチンコを打ったし、競馬新聞を開きもしたが、集中しきれない自分に苛立たされた。いままで楽しく感じていたもののことごとくが、つまらなく、味気なかった。本当にしたいことは別にあるのだという叫びをずっとこらえていた。秀一と過ごした一日、否、たった半日の記憶が、彼のいままでの記憶をすっかり押し流してしまったのだ。

 先日の記憶を反芻するかたわらで、財布のなかにしまった紙片について考えてもいた。秀一宅の電話番号を控えたメモだ、横すべりの細い数字の並んだそれは、先日、ともに遊びに行く前の日、もし都合が悪くなったら電話してくれと秀一がくれたものだ。このあと、幽助も自分の番号をメモに走り書いて秀一に渡し、あわただしい番号交換は終了したが、彼らはまだこのメモを使ってはいなかった。使う予定もまだない。しかしメモはいつも彼の財布の片隅に、大切にしまい込まれていた。

 電話してみようかな、と考えていた。休日で、家にいないかもしれないけれど、家にいるかもしれない。出てくれるだろうか、出てくれるはずだ。遊びに誘ったら、応じてくれるだろうか?

 迷った。迷ったが、彼の体はもう動きはじめていた。まだゲームは終わっていないがすでに意識の外だった。

 ゲームセンターを飛び出すと湿度の高い空気がいやらしくまとわりついてくる。日差しはいつもどおり、きつい。だがそれらも彼の心に取っ掛かりを得ることはできず、彼はただ、ほかのなにものも目に入らぬ様子で公衆電話を探した。携帯電話のはびこるこのご時世、電話ボックスはいつの間にやらすっかり前時代の遺物となり、街頭から姿を消してしまっている。そんな貴重な化石はこのあたりだと、いったいどこにあっただろうか、ショッピングモールの入り口だったか、駅の自販機の横だったか。いっそ家まで帰って家の電話を使ったほうが早いか。知らず早足になりながら頭を巡らせる彼は携帯電話を持っていない、母に持つかと問われたことはあったがいらないと答えたし実際に必要だと思ったこともなかった。いまこのときまでは。電話したい相手などいなかったのだから、仕方がない。

 けれどいまは違う。

 あたりをさぐりさぐり、駅に向かっていた。ふきだした汗が目に入ってしみた、その目がふと吸い寄せられるように見知った影をとらえた。どんな雑踏のなかでも親しいひとというのは、周囲からどこか浮きあがって見えるものだ。彼のいるところから、道路を挟んでちょうどはす向かいにある大きな本屋から出てきたのは、まさにいま、彼が連絡を取ろうとしている相手、秀一だ。秀一のほうは幽助に気付いていない。

 日曜日に本屋になんて行くのかあいつ、などと思いながら自分のタイミングの良さに感心した。通りは車の通行が多いので即時の道路の横断はあきらめて、秀一を目で追いつつ通りを渡れる信号を目指して走りだしたところ、不穏な一団が目の端をかすめた。髪を固めた人相の悪い男が五人。ふたりほどは幽助にも見覚えがあった。制服は着ていないが、累ヶ淵の連中だ。もめ事の気配が漂っていた。

 一団は早い調子で歩みを進めると見る間に秀一を取り囲んだ。とっくに作戦を練り上げてあったような、計算のうかがえる動作だった。秀一は多少の抵抗のそぶりを見せはしたものの、ひとりに腕を掴まれるとすぐにあきらめた様子で、連中の促すほうへおとなしくついてゆく。そうだ、それでいい、信号待ちをしながら幽助は秀一が路地に引き込まれる姿を目で追っていた。いまはおとなしくしていろ、抵抗すれば相手もそれだけいきり立つ。すぐにオレが行ってやるからな。

 しかし、なんともいえない笑いがこみあがってくるのもたしかだった。あのひとはなんと絡まれやすいひとなのだろう、知り合って二ヶ月弱でしかないというのに、幽助の知るかぎりではもう、三回目だ。

 信号が変わると同時に駆けだした彼は笑っていた。秀一がちんぴらどもに絡まれた、ということに対して、焦りはあったが昂揚感も感じていた。喧嘩に対する、思うままにこぶしをふるえることに対する興奮、そして、また秀一を守ることができる、ということへの喜び。それはいまや、彼の存在意義ですらあったかもしれない。秀一に降りかかってくる火の粉を、彼がほかの誰にもできないやりかたで払いのけることができたときのことを想像すると、彼の興奮はめまいを呼び覚ますほどに昂ぶった。秀一を守ることで、自分の存在には理由が生じるのだ、とすら感じていたかもしれない。それはあまりに子供じみた、稚拙な感慨で、けれど幽助がいままで得たことのない、そして欲してやまなかったそれなのだ。彼が、自分がこの世に存在していて良いと思える、唯一の理由なのだった。

 喧嘩できたえられた彼の足は速かった。秀一が引っ張り込まれていった路地に突っ込んでゆき、固く握りしめたこぶしを、慣れ親しんだ暴力を使う喜びに打ち震えさせ、しかし彼が見たものは、思いがけない、思いもよらない光景であったのだ。

 手刀がきれいに決まった、その瞬間をはっきりと見た。糸の切れたあやつり人形のように男が崩れ落ちる、その足もとにはすでにふたりが倒れ伏していた。逆上して襲いかかってくる男の体をきれいに捌き、またもや手刀を一閃させるとその男も声もなく地に落ちた。返すこぶしが最後のひとりの水月にまっすぐ入った。あくまでなめらかで、まるで物静かですらある一連の動作は、幽助の全身を粟立たせた。

 それは、自身こそ荒っぽい喧嘩殺法を使うものの、格闘技に憧れ何度も異種格闘技戦に足を運んだ幽助の目には、長年修行を積み心身を鍛えあげたすえに体得した技の冴えと映った。現に五人もの人間を数十秒で昏倒させておきながら秀一は息のひとつも切らしてはいない。まして心は静寂の水面のように乱れのないことが、その表情からはうかがえた。いつもどおり、なにひとつ変わったことなど起こってはいないかのように、その面差しは凪いでいる。

 秀一が幽助に気付いた。面差しの静謐は破られ、頬は柔和な笑みをたたえた。

「幽助」

 と、澄んでなめらかな声で呼びかけをもらした。

 ついいましがたの光景とはまったく無縁であるかのような従順さ、繊弱さ、無邪気さでもって秀一のまなざしは光を宿し、幽助に歩み寄ろうとする。その表情にあるものは、思いもかけず幽助に出会えた喜びだけだった。

 そんな秀一の微笑に、いままでならばつられて口角を上げていたところだろう、彼もまた、邂逅の喜びにひたったことだろう。しかし知らず、彼はきびすを返していた。秀一の声が追ってきたが、街頭から聞こえてくるコマーシャルソングのようにそれは彼の耳にとどまらなかった、彼自身がとどめようとしなかった。早足がやがて駆け足となり、彼は全力で走っていた。どこへ? 分からなかった、ただ、ここではないどこか、いまではないいつかを求めていた。もしくは逃げていた。いま見たものから逃げていた。

 ひどい失望、それとも絶望だろうか、そのようなものが彼のなかでどっしりととぐろを巻いていた。おのれに対して失望し、秀一に対して絶望していた。やはり、やはり、やはり、そうだったのか。秀一は、自分自身でおのが身を守れるのか。秀一には、幽助など必要ではなかったのか。

 夏の昼日中の陽光が身を焼き、流れ落ちる汗でTシャツがうるさく肌にまとわりついた。汗に視界を奪われて、それでも彼は走った。ただ、逃げた。

 その夜、浦飯家の電話に五件の着信があった。うち二件は、留守電機能にメッセージが入れられており、どちらも幽助あてだった。

 と、いつものように夜も遅くに帰ってきたらしい母に聞いたのは、翌日の朝遅くのことだった。彼は帰宅したばかりで、自身には自覚がなかったが母のいわく、「まるで頭から酒を浴びたみたい」なにおいを振りまいていたようだ。

 昨日彼はさんざん走り回ったあと、母の「友達」であり自分のこともかわいがってくれている男の事務所のドアを叩いた。男に荒れた心をなだめてもらい、夜にはその人物の経営するスナックに連れていってもらって、夜通し浴びるように強い酒を飲んだ。閉店の頃にはすでに意識をなくしていたようだ。朝方、いつのまにか連れて帰ってこられていた事務所で何度か吐き、家の前まで送ってもらい、千鳥足で部屋まで戻ってきたのだった。

 口のなかは酒精でべっとりと重く、呼吸すら苦しくて、喉は干上がっており、頭は割れるようにきしんでいた。酒に対して彼の体は強い耐性を持っていたはずだが、飲み方があまりにもひどかったのだろう、こんな状態になったのは初めてだった。

 水道水をコップにくんでがぶがぶと何杯も飲み、ぬるめのシャワーをゆっくりと浴びると、生き返ったような心地になった。それでもまだ頭痛はいかんともしがたく、同時に強い眠気を感じた。自室のベッドで思うさま眠ろうと足を運ぶ道すがらに、電話機のメッセージボタンの点滅を見つけてなにげなく押すと、流れてきた声は彼の臓腑をおそろしい力でしめあげる、いまは誰よりもいちばん聞きたくないひとの声だった。すべてを聞き終えることなく、できるかぎりの素早さでメッセージを消してしまった――といっても、そのような操作などしたことがなかったから、ずいぶんと手間取ってしまったのだが、彼がもたもたとあちらこちらのボタンを押している最中も流れてくるメッセージを、彼はつとめて耳に入れないようにした。内容はどうであれ、その声を聞くことそれ自体が、いまの彼には苦痛なのだった。電話機のボタンがもう光っていないことを確認して、改めて自室に戻った。彼はひどく疲れているらしかった。一刻も早い、たっぷりとした休息を求めていた。

 そんな幽助の様子を、温子は終始見ていたが、息子になんらかの声を掛けようとも、彼女は思いつかない様子だった。息子が体を引きずるようにして自室に引きあげてゆくさまを、多少肩をすくめただけで見送ったのは、彼女もまた、いまの息子と同じように、ひどく荒れた時期、酒に狂わずにはいられなかった夜を過ごしたことがあるからなのだろうか。


 なまりを抱えたような深い眠りからようよう浮上してきた夕暮れ時、螢子がやってきた。彼女は温子から合い鍵を渡されており、浦飯家への自由な出入りが許されていた。彼女はよく、このように連絡なしにやってきては、浦飯家のぐうたら母子のために食事を作ってやるなどするのだが、今日は用向きが違うようだった。

 彼女は幽助の部屋に物音少なにもぐり込んできて、すぐにも用件を切り出したい様子だったが、部屋に充満している酒のにおいに耐えかねたのだろう、とりあえずも部屋中の窓という窓を開け放った。冷房でよく冷えた、けれど酒のすえたようなにおいに淀んだ空気が追い出されて、かわって湿度を含んで蒸し暑く、そして新鮮な空気が流れ込んできた。

 換気を行っているあいだ、螢子はいったん部屋を出るとコップに冷たい水をくんできて、幽助のベッドの枕元に置いた。彼女は酔った父親の介抱になれていた。大丈夫? と声を掛けられたが、彼はタオルケットに頭からくるまったまま、いらえを返すのもおっくうだった。

 聞こえたら、聞くだけ聞いて、と彼女はいった。

「あのね、南野先輩が心配してた。昼休みにわざわざ私のクラスまで来て、あんたのこと聞いてきた。きのう、機嫌を損ねてしまったみたいでそのあとから連絡が取れないから、心配してる、だって。気に障ったことがあったんなら謝りたいって。あのね、たぶん、先輩、落ち込んでたよ。私は先輩のことよく知らないけど、なんとなくね、あのひとが落ち込むって、よっぽどのことだと思うの。……喧嘩したの? あの先輩が喧嘩って、なんか不思議な感じもするけど、ねえ、連絡取りなさいよ。友達だったら喧嘩ぐらいするわよ。先輩はちゃんと話し合いができるひとだよ。ねえ……こんな形であのひとを手放しちゃったら、あんた、きっと後悔するわよ」

 言うだけ言ってしまうと彼女は帰っていった、と思ったがまたしばらくして戻ってきて、浦飯家のキッチンを使って、母子のためにしじみのみそ汁と、そのほかいくつかの料理を作って帰っていった。幽助は枕元のコップを空にするとまたしばらくとろとろとまどろみ、すっかり暗くなってしまった頃にようやく起きだすと、熱いシャワーを浴びて頭をすっきりさせた。同じ頃、やはり起きだしてきたばかりの母とともに、螢子が作っていった料理をありがたくいただいたのだった。

 翌日も彼は学校を休んだ。

 三日の無断欠席は、さすがに許されなかった。螢子からそれとなくあらましを聞かされたらしい温子が、朝、彼を叩き起こし家を追い出すと、ドアの前には螢子が立っていて、彼を学校へと連行した。ふたりは結託していた。彼はしぶしぶながら、校門をくぐらずにはゆかなかった。幸い、朝は秀一と出くわすようなことはなかった。

 ふてくされながら出席した授業はまるで、全科目といって良いほどにテストが返され、答え合わせが行われた。間違った部分を正す、そのこと自体にはなにも興味が持てなかったが、解答用紙に付けられていた点数には、少なからず驚かされた。いままで彼が得たことのないような数字が並んでおり、赤点の数はこれまでよりもはるかに少なかった。採点した教師も、自身の採点を疑いでもしたか、用紙の片隅には何度かの細かい計算のあとがあるものも多かった。なにが彼の得点をこうまで変えたか、それについて思いを馳せるとまた、気分がどうしようもなく重くなった。

 答え合わせなどには興味が持てず、外部からの情報のすべてを閉め出すように机に突っ伏しながら考えていたことは、この数日、何度も思いを巡らせた、秀一への感慨の模索だ。なぜ秀一の存在が幽助にとってこれほど大きいのか。秀一が幽助の精神に対してこんなにも響くのはなぜか。秀一は幽助の何なのか。

 秀一への執着がいささか度を過ごしているのは幽助自身、自覚があった。これが『友情』なのか、こんなものが? 焦燥、嫉妬、独占欲、これが『友情』というものに向けるものだというのなら、ひとの心はなんとどす黒く淀んだ、醜いものに満ちているものなのだろう。なんと穢れたものであるのだろう。そして友との別離とはなんと、底知れぬ絶望をもたらすものなのだろう。ひとはいったいその生涯のうちに何度、失意の奥底に沈み込まねばならないのだろう?

 しかし、たとえば、と、何度か仮定してみたことがある、たとえば、これが桑原であったら――年が近く対等に接することのできそうな相手をほかに思い浮かべることができなかったので――彼はこんなにも強い、粘る泥のような執着を抱いただろうか? 否、そうはならなかったろう。なんだかんだと角つきあわせていながらも実のところ、幽助は、桑原とはどこか意識の奥深くでのベクトルの一致を感じていた。向いている方向が同じなのだと思っていた。だからあの大男は幽助に勝とうと躍起になり、幽助もまた、追われることが苦ではないのだ。もし桑原が『友達』であれば、もっと自然にさりげなく、『友達』でいられるのではないか。

 けれど秀一は。『似たものどうし』という言葉を秀一は何度か、幽助に対して使った。なるほどと思いながらどこかで彼は、本当か? と思わずにはいられなかった。それを素直に受け入れるには、秀一は幽助と、その意識、価値観、生きざまにおいて差がありすぎるのではないか。孤独だったといいながら、幽助のときに校内で目にする秀一はいつもひとに囲まれている。秀一のいう孤独と、彼の抱え持つ孤独が、同一のものであるはずなどなかった。

 あのとき、彼は逃げ出した。体躯の良い不良どもを秀一がやすやすとなぎ払う姿を見て、いたたまれない思いにおそわれて逃げ出した。それは秀一が悪いのか? 彼は秀一の騎士気取りでいた。それが彼の立ち位置だと信じて疑わなかった。それだから、自分とあまりに違いすぎる秀一のとなりにいる理由を見出せたのだ。けれどそうではなかった、秀一もまた、自分の身を守る牙を持っていたのだ。幽助にはまだ見せたことがなかっただけで。

 秀一は悪くない。ただ、自分が秀一の『何』であれば良いのかを、まだ、見失ったままだ。


 下校時、校門に秀一が立っていたのはまったくの予想どおりだった。校舎を出、校門へと向かう自分を見ている秀一の視線を痛いほどに感じる。だが彼はあえて無視をした。まるでそこには見知った人間などひとりもいない、とでもいうかのように、なにくわぬ顔で通り過ぎようとした。

 と、螢子が横合いから腕を掴んだ。彼女がそこにいることを、幽助はそのときまで気付かず、それは彼の意識がただ秀一にばかり向かっていたからか。彼女は言った。

「いつまで逃げる気なのよ。気に入らないことがあるんならぶつけあったらいいじゃない。友達でしょ」

 螢子はぎらぎらと燃える目で幽助を睨めつけた。彼女は明らかに怒っていた。

「考えたことないの。自分がそうだったらって、思ったことあるの。仲の良かった友達に無視されるのって、ぜんぜん誰もいないようにされるのって、どんな気持ちだと思ってるのよ!」

 夏のさなかだというのに、ひやりと冷気が訪れた気がした。打たれたように立ちすくんだ幽助を置いて、螢子はさっさと校門を出ていった。秀一は彼女を目礼で見送った。

 やがて彼らはおずおずと顔を合わせた。気まずさを感じるよりも早く、秀一が口を開いた。

「このタイミングでこういうことを言うのもなんだけど、幽助、すごくきれいな無表情を作れるんだね。あなたの年の子なんて、黙っててもなにを考えてるのか丸見えみたいなものなのに。すごいね」

 いつもどおりの微笑を向けてきた。あいかわらず変なやつだ、と思った。しかしそのやわらかなトーンの声と、いつもの微笑に、彼の心は緩まずにはいられなかった。「歩きながら話そうか」と促されて、おとなしくついてゆくことができた。

 秀一はやんわりと問うてきた、学校を休んでいたようだが、体調を崩したのか。体は大丈夫か。それともなにか悩み事があるのか。ことばに責める気配はなく、秀一が本気でそのように問うてきているのだということが分かった。笑いはしなかったものの、おかしなことだとは思った。つい数ヶ月まえまでは、彼が学校を休むなどは日常茶飯事でしかなかったのに、それを案じてくれるひとがいま、いるとは。

「それとも、勘違いだったらごめんね。もしかして、幽助、オレに対して怒ってるかな? そうだとしたら、それはどうして?」

 単刀直入に切り込んでこられて、けれど幽助には答えられなかった。彼はそもそもの最初から、秀一に怒ってなどいないのだから。

 黙りこくった幽助にも、秀一は鷹揚だった。言葉を変えて重ねて問うてきた。

「日曜、会ったよね。でも、幽助、すぐにいなくなった。どうして? せっかく会ったんだし、お茶でもしたかったのに」

 なにも言えなかった。自分の感じていることを、うまく伝える自信もなかったし、伝えられたとして秀一にばかにされないか、笑顔でなだめるその裏で鼻で笑われているのではないか、心配だった。いまの自分が、かつての自分ならばぶん殴ってやりたくなるぐらいに陰鬱で魯鈍な思考のなかにはまりこんでいることは自覚があったが、どうにもならなかった。あのとき、自分から逃げ出しておきながら、いま、秀一を失うのが怖かった。

 それでも秀一は根気強かった。

「じゃあね……あのとき、なにを考えたのか、なにを感じたのか、聞かせてくれないかな。あのときだよ、オレがまた怖いひとたちに絡まれてしまって、幽助が、たぶん幽助は近くにいて、気付いてくれて、助けてくれようとしたんだよね? まあ、オレが先に片付けちゃったけど、駆け込んできてくれて、それで、なにを思ったのか。感じたのか。聞かせて?」

 小さなこどもをなだめ、言い聞かせるような調子だが、嫌味がない。

「あのね幽助、オレ、あなたになにか言われて、それで怒ったり、あなたを嫌いになったり、そういうことはきっとないよ、だってオレ、あなたのことが好きだもの。だからね、知りたいんだ、オレがあなたを傷付けたのか、なにか拙(まず)いことをやっちゃったのか。それであなたが不快な思いをしたなら、もう、平に謝りたいんだよ」

「……オレが、好き、……」

 それは低くかすれた、自分の耳にすらやっと届いた言葉であったというのに、秀一はおそるべき耳ざとさでもって彼の言葉をすくい上げた。

「うん。好きだよ」

 秀一に憧れる女の子が一瞬でとりこになるに違いない、眩しいような笑顔だった。

「前にも言ったけど、何度も言う。幽助が好きだよ」

 そのように、あまりにもまっすぐ差し込まれて、幽助はひどくどぎまぎした。頬が熱かった。こいつは、と内心では思っていた。なんでこんな恥ずかしいことを、てらいもなく言えるのか。

 しかし、まっすぐに向けられる好意が、彼の背中を押したこともまた、たしかだった。彼はもぐもぐと、はっきりしないながら言い繋いだ。

「…………あんな。笑うなよ。あんとき、オレ、おまえのこと助けねーとって思って、……オレ、決めてたんだ、おまえがもしまたあんなふうに危ない目にあったときは、絶対助けるって。それがオレの役目なんだって。けど、おまえ、…………強いんだな」

 ため息にまぎれそうな彼の独白、彼自身ですらなにを伝えたいのか見失ってしまいそうなたどたどしい告白を聞き終えると、秀一は、なんともいえないような顔になった。考え込むように目を泳がせ、唇をへの字にしたが、それは幽助に対して悪い感じのする表情ではなかった。やがて微苦笑のようなものを浮かべると、幽助の頭をふたつみっつ、ぽんぽんとやった。

「そうか。あなたは今まで、本当に孤独だったんだね。あなたの寂しさを受け止めてくれたり、ひとと接するやり方を教えてくれたりするひとは、ほとんどいなかったんだね。しょうがないね。あなたが自分に役割を課したのは、オレといっしょにいるための理由付けかな? 自分に役割を課すことで、オレとの接点を見出していたということかな。うん。なるほど。で、その役割が果たせなかった、むしろオレが奪ってしまったから、オレとの接点も見失ってしまった、というところかな。うん」

 秀一はひとり納得顔だった。そして幽助に向き直ると、

「あのね、幽助、今まで何度か言ってきたつもりのことを、また言うよ。幽助が納得できるまで、これから先も何度も言うよ。オレはね、なんらかのメリットを求めてあなたと仲良くなりたいわけじゃないんだよ。見返りなんていらないんだよ。だから、あのとき、オレのメリットになれなかったことを、違ったらごめんね、恥じる必要なんてないんだよ。それとも、言い方を変えようか。オレは幽助にたくさんのメリットをもらってるよ、いっしょにいたら楽しいという、ね。このあいだ、いっしょに遊んで、買い物に行って、ゲーセンに行って、ほんとに楽しかった。また幽助と遊びたいと思ったよ。このあいだの日曜も、幽助んちに電話したんだよ。誰も出なかったから、ひとりで本なんか買いにいったんだけど。それにね、幽助がオレのことを好いてくれてるのはよく分かる。オレを守ってくれようとしたこと、すごく嬉しいよ。そういうのは、十分、あなたと仲良くしたいっていう理由になるとオレは思ってるけど、幽助は違うかな? もっと具体的だったり即物的だったり、はっきり形あるものだったり、そういう理由がなければ、幽助はオレと友達ではいられない?」

 秀一を見上げると、目が合った。疑問系で言葉を投げかけておきながらそのまなざしは自信に満ちて、否とは言うまいとまるで確信しているかのしなやかな自信がほの見える。見透かされている、と思ったが、不快ではなかった。

「……そうでもない。……分かった。それで良い」

 ぶっきらぼうに言うと、秀一は笑った。幽助もつられて笑った。やっとふたりで笑いあえた。

 ひとしきり笑うと、体の力が抜けたようで、今までは気付かなかったことが頭に入ってきはじめた。今日もあいかわらず暑いんだな、とか、自分がとても汗をかいていることとか、にもかかわらず秀一は、いつものようにほとんど汗をかいていないこととか。するとまた無性におかしくなって、声を出して笑った。秀一もつられたように笑った。なんだか楽しかった。秀一といると生まれるこんな時間を、好きだと思った。

「おまえってほんと、変なやつだよな」

 そういうと秀一は、笑いながらも眉間にしわを寄せた。

「そうかな。当人はいたって普通の、どこにでもいる高校生のつもりなんだけどな」

「本気でいってんのかよ、それ。……じつはさ、おまえのほうが本当は、人間じゃねーんじゃねーの」

「……え」

「ほら、まえに言ってただろ、おまえ、オレが人間じゃないみたいで、だから興味持ったって。けどおまえのほうがさ、やたらと頭良いし、喧嘩も強いし、あと、螢子が言ってたぞ、高等のほかの先輩よりもずっと大人に見えるって。おまえじつは、人間じゃなくて、ものすげー年寄りで、人間の皮かぶってオレやまわりのやつらのこといじって楽しんでんじゃねえの」

「おお。すばらしい想像力だ。そのとおり、オレは人外生命体で、実年齢は二千歳ぐらいで、ふつうに生きるのが飽きちゃったもんだから人間ごっこなんて楽しんでみてるんだよ。おかげさまで、日々、充実してるよ」

「ぎゃははは。おまえでもそういう冗談いうのな」

「冗談じゃないって。本当だって」

「おまえさ、すげー喧嘩強いのな。このまえ、すげえびっくりしたんだぞ」

「うん。ちょっとかじっててね」

「今度オレとやってみようぜ。おまえに殴られたら気持ちよさそう」

「なんかそれ、変態くさい……」

 笑いあい、肩を並べて歩くふたりのあいだを、暑い夏の風が吹き抜けてゆく。

 秀一が言う。

「ねえ、次の日曜、遊ぼうよ。次の日曜だけじゃなくてもさ。これから、夏休みだよ。毎日いっぱい時間があるよ。ふたりでいっぱい遊ぼうよ。楽しいこと、たくさんしようよ」

 信号に足止めをくらって、なんとはなしにふたり同時に見上げたものは、高く青い夏の空。

                            『友情編』了

2006年初出。

同人誌も販売中。本では『恋愛編』『エロ編』も収録しています。

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