空色ーてんじきー 友情編前半

※パラレルです。



 空は日に日に透明感を増してゆくようで、しかし、その爽やかな印象の色味とは裏腹に、大気は湿度を多く含んでむし暑い。半袖の腕や開襟シャツの首まわりに汗を誘われる。この快晴もあと数日に違いない。次に雲が空を覆ったときが、関東の梅雨入りのときだ。

 幽助は空を見上げながら、ちょうど建物の日陰になる位置に入り込んで煙草をふかしていた。ここは本来、彼のような立場のものが大っぴらに煙を吐いていても良い場所ではなかった、すなわち、学校。しかし彼のいるこの場所は本来、立ち入り禁止となっている屋上であり、また彼は、他の校舎から完全に死角になる場所に座っている。この場所が、朝から昼にかかるまでの時間、上手いぐあいに日陰にはいる。彼にとっては都合の良い休憩場所といえた。

 もっとも、この時間にこの場所にいることが彼の日課であるとは、必ずしも限らなかった。彼の持っている『休憩場所』はここだけではない、体育館の用具庫のマットはいささかかびくさくはあるが昼寝のための良い寝具になるし、より安眠を求めるならば、茶道部が専有している作法室の畳の上に座布団を敷き詰めもする。学生らしく授業にまじめに出席し(だが授業に出席することが『まじめで学生らしい』ことだろうか?)、自席でふまじめに居眠りをすることもあれば、そもそも学校に出てこずに歓楽街をうろついていることもある。教師やクラスメートたちの顔は、見たくないときのほうが多かった、どのみちどちらからもけむたがられている。今日は三日ぶりに登校してみれば、四限が数学、担当の岩本はいけ好かないやつで幽助を目の敵にしている。面倒くささにここに逃げてきて、そのまま、煙草をあてに空をながめていた。

 そんな時間を彼は学校生活のなかに多く持つ。学校に来ながら煙を吐く以外にすることがない彼を、そんな時間は手持ち無沙汰ではないかと彼の幼なじみは揶揄するが、そんなふうに感じたことはない。手持ち無沙汰と思えるならばそもそもこのような時間を持つことはあるまい、そんな感覚を知ってしまえば彼はこのような時間たちすらも唾棄せざるを得なくなる。見上げる空に心躍るような楽しさは見出せないが、時間を無駄に費やしているという思いもまた有り得なかった。時間の有意義な使い方は彼の日常に存在しない。彼は空を見上げている。どうして空は、空の色合いは、本来寒色である青は、この時期になると涼しげな印象を投げ出してしまうのだろう。もうじき夏だと、空を見上げれば分かってしまう。暑いのだ、と、空の青が告げる。

 そんなことを思ううちに四限終了のチャイムが鳴った。陽は天空の頂点を極め、気付けば日陰は消滅しており、幽助は舌打ちをしながら煙草を足許のコンクリートでもみ消した。うかつだった、さっさと場所を変えるか、せめて昼食を調達してくれば良かったと思う。学校はこれから昼休みにはいる、『昼休み』、それは彼の嫌う時間の一区分だ。昼休みになると、授業中だったそれまでの時間の張りつめた静寂とはうってかわって、学校全体は健康的な蠕動に包まれるように感じる。至るところで起こる笑ったりひとがひとを呼んだりする声、人間たちの気配がせわしないさざなみのようで、彼は落ち着かない気分になる。学校中を見下ろせる屋上にいるならばなおさらだった。ましてそんななか、人間のごった返す売店にゆく気など起こるはずがない。彼は煙草の新たな一本に火をつけ、フィルターを噛みしめた。観念した。日向になってしまったこの場所で、中庭から響いてくる歓声に耐えながら、飢えたまま昼休みの終わりを待つしかないと思った。

 チャイムと同時にわき上がった雑多な音は時間とともに増殖する。他愛のない会話、戯れ以上ではない少女たちの悲鳴、ひっきりなしに中庭を横切ってゆく足音、バトミントンのシャトルがラケットに弾かれる音、聞こうとしなければ良いと思えば思うほどに耳は微細な音さえも逃さず拾い上げるようだ。火が蛇の歩みの緩やかさで煙草をはい上がるように、彼の神経は時間をかけてじりじりと灼かれ、否応なしに苛立ちがつのった。破壊衝動はこぶしに蓄積されるのだろうと感じることがあり、きっと今日の午後には、彼の欲求不満の犠牲者となる人間が幾人か出ることだろう。

 彼以外の誰の手によっても開けられるはずのない、屋上と階下とをつなぐ扉が開けられたのは、そのようなときだった。

 ひとの気配があった。幽助がいる場所は、屋上の扉の真裏にあたるが、気配はここへと向かっているようだ。幽助は剣呑な目つきを意識しながら気配のほうを見やった、相手が生徒であろうが教師であろうが頓着はない、見付けられて慌てるくらいなら最初からこんな場所で煙草など吸っていない。

 気配は人影になり、彼の視界に入った。教師ではない、男子生徒、しかし低い位置から見上げる彼の目にはそのひとは逆光に入っているに近く、個人を特定できはしない。激しく睨め付ける彼に対して、そのひとはおもむろに口を開いた。

「……浦飯幽助、さんですね」

 声はよどみのないアルトだった。


 人影に、幽助は心当たりがなかった。このお上品な学校のなかで、彼に声をかけてくるものはといえば、生徒のなかでは幼なじみと、自称幽助の『ライバル』くらいのもの、教師ではおせっかいな国語教師がひとり。ほかのものの多くは、彼の姿を見れば皆一様に目を伏せ彼の視界から姿を消すべく素早く早足になる。

「浦飯幽助さんですね」

 と、腕に紙袋を抱えたそのひとは再度問いかけ、それから続けて、

「となり、よろしいですか」

 幽助が黙っているとそのひとは、とくにためらいめいたものを見せることもなく彼のとなりに座り込んだ。顔の高さが同じになり、そのひとの顔は彼の視線の前にくっきりと暴かれたが、彼はやはりそのひとの顔に見覚えはなかった。美形といって良いであろう整った目鼻立ち、大きな目を隈取るまつげは長く濃く、強く印象に残りやすいに違いなかった、肌は日本人離れして白い。髪はずいぶん長い様子で、後ろでひとつにまとめられている、だがその姿に違和感がない。こういうのを美少年というのかもしれないと、彼は柄にもなく思ったものだ。糊のきいたシャツに刺繍された校章の縁取りは緑、高等部の生徒のようだ。幽助の不躾な視線にそのひとはたじろぐ様子はなく、逆に薄く笑ったように見えた。

「浦飯さん、お昼ごはんのあてはありますか。ご友人と食べに行くとか、お弁当など持参しておられるとか、そういうことはありませんか」

「……特にないけど」

 あからさまにうさんくさい表情をしてみせた幽助に、やはりそのひとは動じない。

「そうですか、良かった。では、今日はオレにおごらせていただけませんか。いろいろ買ってきたんです、お好みのがあると良いのですが」

 そのひとは腕のなかの紙袋を押し開くと、育ち盛りの胃袋を刺激するにおいの漂うものを多く取り出した、焼きそばパン、唐揚げパン、たこ焼きパン、明太子ドッグ、プリンパンなんかデザートがわりにいかがですかなどといやににこやかだ、学園内に於ける最大の激戦区たる売店からの戦利品を一通り説明し終えてしまうと、そのひとはふいに、忘れ物がありました、慌ただしげに屋上から去った。戻ってくる気はあるのかないのか、取り残されたパンたちを物色する、かなりの数のパンがあったが、空腹の彼の腹には過ぎる量ではなかった。戻ってこなくとも食べてしまって良いのだろうか、あいつは『おごる』といったけれど。代償なしに与えられる食料は動物の餌付けを思わせて不愉快だったが、食べ物たちに罪はない、それらをはねのけるには彼の腹は健康だった。焼きそばパンをつついていると、またしても扉が開いて、さっきのあのひとが戻ってきた。

「忘れていました。この時期、飲み物がないとパンは食べづらいですよね」

 笑いながら、よく冷えたコーヒーの紙パックを差し出した。

 彼に昼食をおごる理由についてそのひとは、お礼なのだ、といった。何に対するそれなのか、幽助は分からなかった。ここ数年、ひとから感謝されることをした覚えは、彼にはない。幽助は無言で食べ、幽助のとなりでそのひともパンをかじってイチゴオーレのストローをくわえた。彼のとなりに、この学校始まって以来の不良生徒と囁きあわされている浦飯幽助のとなりに座り込んで、そのひとはずいぶんくつろいでいる様子だった。うっとうしいやつなら追い出してやれば良い、と思っていたが、そのひとはもの静かで、むしろその動作のひとつひとつに静寂のにおいが寄り添った。そのひとの動作ごと、一連の静止画像を見るようで、清涼な凪の気配に火照っていた彼の神経はいつしか癒されるようだ。先刻まで彼の神経を苛んでいた昼の時間帯のざわめきも、遠い潮騒のように静やかだった。食事の合間にそのひとはひとことだけ、「暑くないですか」と直射日光を浴びる彼を気遣い、彼は「暑くない」と応じて、それは強がりに違いなかった、彼の背や腹は汗に濡れていた。「暑くないですか」と問うたそのひとこそが汗の一筋すらなく穏やかだった。

 食べるものがなくなってしまい、紙パックのなかから飲み物が消失しても、ふたりは黙って腰を据えたまま動かなかった。日光は彼の予想以上の烈しさで、容赦なく彼らの肌を焼いた。今夜はずいぶん頬や腕が火照るのだろうとうんざりしながら煙草に火をつけた。となりにるこのひとが早く去れば良いのに、と思いながら煙を吹き流した。そうすれば、彼もさっさとこの炎熱地獄を離れるというのに。そこに、となりのひとが、「実は」といやにもったいぶった言葉をつなぎ始めた。

「実は、『お礼』というのは、今日こうしてお時間を割いていただいている理由の半分でしかありません。ありていにいうと、オレはあなたのことが気になりました。あのとき、あなたはとても強い目をしていて、それはオレがいままで見た誰より強い目で―――いっそ人間ではない生き物のようで―――だからとても気になりました。もう一度、会ってみたい、と」

 それから、ピンと芯の通った声で、

「浦飯さん。あなたはとても魅力的なひとだと思います」

 そのひとが、どんな表情でそのようにいったのか、幽助には分からなかった。耳なじみの悪い言葉を頭が理解し、彼がのそのそとそのひとを顧みようとしたちょうどその時、五限開始五分前のチャイムが鳴り響き、そのひとはあたふたとあたりを片付け始めたのだった。パンの袋とジュースのパックと幽助が投げ出してあった煙草の吸い殻をまとめて紙袋に投げ込み、くしゃくしゃと丸めてこぶしふたつ分ほどの大きさにした。素早く立ち上がり、今日はありがとうございました、とばかていねいなお辞儀をしてからきびすを返した。そのひとの体が建物の影に隠れてしまいそうになる瞬間、彼はいてもたってもいられない気分になった。気付けば急き込むように問うていた。

「なあ、あんた。―――名前は」

 そのひとは立ち止まった。振り返った。笑っていた。

「南野秀一」

「……学年は」

「一年です、高等部一年」

 そしてそのひとは今度こそ屋上を去った。

 校舎全体を覆っていたざわめきが急速に遠ざかり、再度静寂に塗りつぶされる空気を幽助は慕わしく思った。太陽は頭上高く、ただ一心に光り輝く。短くなっていた煙草を投げ捨て、新たな一本に火をつける。箱のなかは空になった。一筋立ちのぼった煙は燃えるような青のカンバスの上で雲となりやがて散った。

 定められた下校時間よりもずいぶん早い時間に校門を出た彼はとっくに、『南野秀一』を忘れ去っていた。と、彼自身は思いたかった。しかし、忘れてしまったつもりでその実、気付けば『南野』のことを考えている。

 相変わらず、南野のいうところの『お礼』の意味は分かっていなかった。幽助には自分の行動のひとつひとつをつぶさに覚える習慣はない、ひとの顔を覚える習慣も持っていない。しかし『お礼』にと昼食を持ってきた南野は勘違いだか人違いだかをしている様子はなく、「浦飯幽助さんですね」そういった声は確信に満ちていた。他人が持っていて自分の持たない記憶に幽助は焦れた、焦燥感が苛立ちに変わるのにそれほど長くはかからなかった。苛立ちまで誘われるようなことならばいっそ本当に忘れ去ってしまえば良いと思うのに、南野は、彼の呼びかけに振り返って嘲りでも蔑みでもない様子で笑った南野の顔は、いやに目の前を行き交ってしかたがない。ひどい破壊衝動に駆られて、彼のそれは喧嘩という行動に直結している。ちょっとは我慢してみなさいよと彼の幼なじみはいうものだった、腹が立ったり不安だったり不満だったりっていうのは誰だって感じるものよ、でもみんなそれを表に出すのを我慢してるの、いろんなものを壊したくなるのはあんただけじゃないのよ。

 帰り道として毎日のように通る商店街に差しかかったとき、しかし、それまで不鮮明だった南野についての彼の記憶は秋空のように冴えわたったのだ。それまで思い出せなかったことのほうが不思議なほどに、記憶は彼の中で唐突に、そうでなければ日ごと定刻に上げられるのろしのように、当たり前のように立ちのぼってきた。一週間ほども前のことだったか、あたりには彼のものと同じ制服を着た連中がちらほらといたから珍しくまともな時間に下校した日だったに違いない、他校の制服を着た数人の男に絡まれている、自分と同じ制服を着た人間を、彼は助けたのである。

 もっとも、彼自身に『助けた』という意識はなかった、他校連中は隣町にある男子校のものたちで、生徒たちの素行の悪さが悪名高い学校である、幽助などは常々、そちらの学校のほうが自分の性には合っている、と思っている。しかし(残念ながら)彼にとってその連中は『他校』の生徒であり、この辺り一帯は彼のテリトリーであった。なわばりを侵したものは身をもってその罪をあがなわなければならない、路地に連れ込まれている同校の生徒を追って路地裏にもぐり込んで、カツアゲか何かなのであろうその人物を取り囲んでいた連中を数分とかけずに叩きのめした。狭い裏道が静かになったとき、彼とゆすりを受けていたそのひと以外に地を踏みしめている者はいなかった。彼はその後、『助けた』そのひとの顔を見ることもなくその場を去った。領域侵犯者たちに制裁を加える以上の興味は、彼にはなかった。

 ……あのときに、立ち去る彼の背に「ありがとう」という言葉が、あるいは掛けられたかもしれない。彼の繰り広げた大立ち回りの直後だったというのに意外にもはっきりとして、どこか柔らかな響きを孕んでいたあの声は、よく考えてみれば、今日、彼に謎を掛けた、『南野』の声だったかもしれない。


 朝、始業のチャイムが鳴る前に螢子を捕まえると、彼女はこんなに早くに彼が学校にいることにいたく驚いた様子だった。

 雪村螢子、幽助の幼なじみである彼女はこの学内で唯一、彼と親しいといって良い人物で、彼の前に立って卑屈な態度を見せることのない、むしろ彼を殴り飛ばしてしまえる珍しい人物である。彼女は幽助の目にも、それなりに見栄えのする容姿をしており、さらには朗らかで裏表のない性格、勉強も運動もよくこなし、男女ともに信望が厚い。正反対の幼なじみと陰口で、時には面と向かっていわれることもある。また一方で、学内においては腫れ物の扱いを受ける浦飯幽助が唯一、心を許している様子の彼女に、ふたりは付き合っているのではないか、という噂があることも幽助は知っていたが、そのような事実はふたりの間にはない。ただ、われなべにとじぶたという言葉の妙といおうか、彼のような男につきあえる女は彼女くらいなものかもしれないと、うすぼんやりと思うこともよくあった。

 そもそも、幽助がこの学校、進学校としてもそこそこに名の知れた私立の上品な、彼にはあまりに不釣り合いな、学校に通っているのももとを正せば螢子に発端がある。この盟王学園は彼女が志望していた学校であり、試験だけでも一緒に受けようと請われて受験してみれば、なんのはずみか受かってしまった。受験直前に、螢子が選んで練習問題として解かされた問題が実際の試験でことごとく的中したのが悪かった。螢子は頭だけでなく勘も良い。

 幽助の母である温子は、ばか高い私学の学費を出し渋るかと思ったが、盟王学園合格の報告をすると、あんたの好きにしたら良いよと涼しい顔でいったのだ。「飽きるまで通えばいいさ、学校なんていちばん分かりやすい社会の縮図で今の日本のいちばんクソな場所だ、そういうところを知っとくのもそんなに悪くない。飽きたらさっさと働けばいい、そのとき初めて、生きてるって気分になれるよ」ポンと金を出してくれた。そうした学費やあるいは日々の生活費がどこから転がり込んでくるものなのかをいまだに幽助は知らない。

 螢子は『南野秀一』を知っていた。彼女のいうには、『南野』はこの学園内のちょっとした有名人であるらしい。中等部からの持ち上がりの多い高等部では珍しい、高等部からこの学園に入った外部組であり、進学コースの編入試験の成績はトップだったという噂がある。学期始めに行われた全国一斉模試においては、総合で全国三位、数学では一位だった。先日の中間考査では、全教科満点を取り、中学まで学年トップの座を守っていた海藤を蹴落として、現在、学園でいちばんの秀才といわれている人物、なのだそうだ。ちょっと見ない美形なので女子からたいへんな人気がある。次期生徒会長ではないかと、早々に噂が立っている。

 それがすべて本当ならば、薄気味悪い、と幽助は思う。判で押したような優等生、けっして近寄りたくはない、関わりたくない相手だ。しかし。

「……そいつって、変わり者って噂、ある?」

 螢子は首をひねった。

「南野先輩にはおよそ似つかわしくない形容だと思うな、それ。『変わり者』って。むしろ、きまじめで律儀だって話ばっかり。頭が良いひとは変わり者だってよくいわれるけど、南野先輩ってそんな感じじゃないなあ。南野先輩のライバルの海藤先輩は、かなり偏屈らしいけど」

 螢子の海藤は幽助が予想していたものではなかったが、それだけ聞ければ十分であった。そうして螢子の前から去ろうとしたところ、

「『変わり者』っていったらちょっと違うのよ……南野先輩のことだけど。私、南野先輩のことよく見かけるのね、図書館によく来るから、先輩。『変わってる』んじゃなくて、そういうのじゃなくて、でも不思議な雰囲気、あるなあ。先輩には。上手くいえないけど。頭が良すぎて変人に見えちゃうのとはちょっと違うのねあれは、先輩がそこにいること自体に違和感があったり、逆に存在感が全くなかったりして、あのね、南野先輩、昼休みになったら日があたる窓際の席が好きらしいんだけど、そこで本を開いて、でも多分本なんて読んでなくて遠い目してるみたいな先輩は、観葉植物かなにかみたいに見えること、あるな」

 そこで始業5分前の予鈴が鳴った。幽助と彼女の教室は別である、彼女は幽助を彼の教室へと追い立てた。彼を教室から追い出しざま、彼女は、

「でも、なんであんたが南野先輩のことを気に掛けてるの?」

 急かした彼女を裏切るようなのんびりとした歩調で彼は自分の教室へと戻った。一限目は国語、年若い女教師は生徒たちに人気があるらしいが彼にはただ気怠いだけの時間だ。彼は机に突っ伏して居眠りを決め込もうとした、が、螢子の言葉がいささか耳の中に引っかかり、多少の眠れない時間をもてあそんだ。「南野先輩のことを気に掛けてるの?」ばかげた言い種だ。気に掛けている? そんなことはない。他人なんて気に掛けてもどうしようもない。と、彼は、思うのだが。

 その日、非常に珍しいことに彼は最後の授業まで出席して、クラスメートと教師たちを驚かせた(もっとも、出席したといっても、大半は寝ているか、携帯ゲーム機をいじっているか、教科書に落書きをしているかであったが)。下校も他の生徒たちと同じ時間になり、そのせいか、校門を出て少しばかり歩くと桑原和真と遭遇した。桑原は幽助と同じくこの学校に相応しいとはいいがたい生徒で、自称『浦飯のライバル』である。幽助と同い年ではあるが、年齢相応に華奢で幼さを残すと評される幽助と相対するように、桑原は見上げるような長身で全身にがっしりと筋肉をみなぎらせている。制服を着ていないと学生には見えない。しかし良いとはいえない人相でありながら、彼は今日も、背後に三人の弟分を従えており、そこが自分とのいちばんの差だ、と幽助は考えている。

 桑原は今日も、浦飯覚悟と吠えながら猛然と殴りかかってきたわりに、あっさりと幽助の返り討ちにあい膝をついた。百年早いと笑ったところに、道端で派手なやりとりをする彼らをながめる人影に気付き、多くのものは目をそらし黙って通り過ぎる彼らのやりとりを見つめているのはいったいどんな物好きかと思えば南野秀一だった。南野は幽助と桑原を見比べていたが、幽助と目が合うとまなじりをなごませるような笑い方をし、軽く会釈して立ち去った。背にかかる長い髪が、歩みごとに揺れる後ろ姿を見ていると、いつの間にか身を起こした桑原が彼の足許で、

「あれ、南野だよな。高等部の超秀才」

 怪訝そうな表情と声で、

「おまえ、浦飯、南野と知り合いなのか? ……おまえが南野と?」

 そのようにいう大男を思いきり蹴り飛ばして、幽助はその場を立ち去った。


 学校生活は毎日が、単調で手垢の付いた日常の繰り返しに過ぎない。そうでなければ、粗悪な複製機で模写された大量生産の時間の積み重ねだ。普通と呼ばれる生徒であるなら、朝はいつも同じ時間に起きて学校へ行き、定められた時間枠で授業を受け、学校が終わると、遊びに行くもの、塾へ行くもの。夜になるとその日と変わらぬ翌日を思いながらひととき、闇の中に変調の夢を見る。幽助はそれよりは多くの変化を自身の力で呼び活けているかもしれない、校舎に閉じこめられる時間を嫌ってゲームセンターに立てこもり、競馬に自分の第六感を費やし、パチンコに手指の神経を磨く。

 だがそれは、彼の退屈への苛立ちを払拭するものではなかった。昼間のひとの少ないゲームセンターで使い古された格闘ゲームのコントロールキーを何度殴りつけても勝てない敵に何度目かに負けたとき、ふいに我に返ることがあり、そこで頭をよぎる思いは、「なんでオレこんなことやってんだ」。いつまでこんなくだらない遊戯に興じているのか、ふと背筋が伸びて周囲を見渡すとしかし彼の目に入るものは薄暗く極彩色の光の飛び交う空気の淀んだ人為的な洞穴、額を千枚通しの鋭さで貫く音楽に埋もれてちらほらとうかがえる人影はどこかの学校の制服をだらしなく着崩していたり張りのない背広にネクタイを弛めていたり、彼らの奇妙にうつろな表情には不釣り合いな情念で見開かれた目、ゲーム画面から放たれる光が彼らをギラギラとした不健康さで脂っぽく浮かびあがらせて、彼らが背筋の伸びたひとりの少年を顧みることは有り得ないのだった、だから彼も再びゲーム画面に戻るのだ、なぜ自分の背筋が伸びたのか、その理由も忘れ去ってしまって。あるいは、忘れ去ったふりをしてしまって。

 そろそろ潮時なのだろう、と思うときがある。学校には、飽きるまで通えば良いと温子はいった。だから、もう潮時かもしれない、と。小学生時から併せると七年と少しの間、学校という世界に触れ続けた。もう十分だ、と思い、もうまっぴらだ、とも思う、学校生活、あるいは学生という立場は、彼にとって面倒ではないが快くもない。その中にいる毎日はつらくはないが楽しくもない。退屈だ、と思えることは幸せなことなのだろうと、商店街の端にある、夜遅くまで開いていて休んでいる日など見たことがない、やたらと高価なメロンやマンゴスチンを会社帰りの酒の入ったサラリーマンに売りつけてようやく日銭を稼げる青果店を見るたびに感じはする、彼の退屈は、どこからか、まるで湯水かなにかのようにわき上がるふうにも思える母の金の力の上に成り立ったものであったから。もうまっぴらだと思ってはいるが、退屈は一方で、真綿の敷き詰められた揺りかごに似ていて、気付けば彼はまた、ゲームセンターで紙幣を両替し、競馬新聞に赤丸をつけ、パチンコ台のハンドルを握り続ける。すると退屈に対するそれとはまた別種の苛立ちがわき起こり、次にはひとを殴りたいと思う。

 そのような彼の退屈の時間に、南野秀一はいつの間にか、音もなくもぐり込んできたようだった。ゲームやパチンコや喧嘩の合間にふと、南野が脳裡をよぎる。ひとたび思い出してしまうと、彼の頭のなかが南野の影で支配されるまでにそれほど時間はかからない。螢子に指摘され、そのときは否定したものの、彼はやがて認めないわけにはゆかなくなった、自分は南野を『気にしている』のだと。ひとりきりでそれなりの時間が取れるとき、具体的には、授業中の教室の中や授業をボイコットして逃げ出した先、時には夜、ベッドにもぐり込みながら、彼は南野と過ごした時間を思い返し、南野の言葉を反芻した。南野と過ごした時間といってもそれはごくわずかな時間で、先日の昼休みの一時間足らず、そしてその翌日の帰り道での一瞬のすれ違い、ほんのそれだけだ。その短い時間のなかで南野は彼に対して、笑いかけ、話し掛け、食事をおごるといった。幽助に対して、「あなたは魅力的なひとだと思います」といった。

 螢子に聞く限りでは、南野は完璧な優等生だ。全国模試での成績は順位が頭から数えられる。見目の佳さは幽助にすらよく分かるものだった。なおかつ、『きまじめ』で『律儀』と螢子はいう。ならば人望も厚いのだろう、そういえば、次期生徒会長といわれているのであったか。それらがすべて事実ならば、南野秀一はなんと幽助と対照的な人物であろうか。成績はもちろんのこと、他の面でも自分はおおよそサイテイだ、と彼は思う。誰にも負けたことのない喧嘩に周囲は白い目を向ける。

 南野は彼に近づいてきた。彼の力に取り入る様子も、また彼の力を取り込む様子もない、屈託のない姿だった。彼をして、魅力的だと、いった。

 一般的に、優等生と呼ばれる彼とは生きる世界の違う連中は皆、彼のような人間を見ると不快の色を示して目を逸らすか、さもなくば嘲りの感情をあらわにするものだ。それが腹立たしいがゆえに、彼はなおさらそのこぶしにはがねの強度を欲する、暴力をふるう彼を求める連中に対して、期待に応えてやろう、と思う。どのみちこのこぶしが多くの人間を屠るたび、連中は自分に近付けなくなる。……南野は、彼から目を逸らさなかった。蔑みも嘲りもせずに、彼に笑いかけ、言葉を交わした。彼とまっすぐに視線を合わせた。それは、幽助という強大な力の前にすがった虚勢でも、また、彼の持つ力に気付かない鈍感でもなかったように思う。

 南野秀一という人間を知ってから、数日が経つ。彼の記憶のうちに留まる南野の顔の輪郭はそろそろ崩れ始めていたが、あの揺るぎない視線と、それを支えていたアーモンド型の大きな目は、忘れようとしても忘れられないもののように思えた。南野は彼をして、「強い目を持っている」といった。あのとき彼は、南野の言葉の意味がよく分からなかったが、今ならば少し分かる気がするのだった。

 前方数メートルを歩いている人間が南野秀一であるということに、幽助はずいぶん早くから気付いていたのである。気付いてそして、彼の胸はずいぶんざわめいていたのだけれど……少し歩みを早めればそれで南野のとなりに立つことができたのだけれど、彼はそうせずにいた。南野の家は彼の家とずいぶん近いのか、彼はしばらく南野のあとをついて歩くことになった。早く道が分かれればよい、とも、いつになったら道が分かれてしまうのだろう、とも思った。だがやがて、迷う自分が世界一の大間抜けであるように思えてきて、やりたいことをやれば良いのだ、と歩みを早めた。

 南野は校門を出たときからひとりで歩いていて、時折クラスメイトだか知り合いだかを追い越したり、逆に追い越されたりしたときに軽くあいさつをしてみせて、それが幽助には少し意外だった。優等生で人気のある南野のことだから、きっと親しい連中やあるいは彼女と並んで帰っているのだと思っていた。そういえば、以前桑原といるときに、軽く会釈をして去っていった、あのときも南野はひとりだった。

 南野に並ぶにはあと数歩というところまできた。名を呼べば声は容易にその耳に届くだろう、南野、と、ひとことで良かった。―――だが、考えてみれば、彼はなんのために南野に声を掛けるのか。どうして自分が、よく知りもしない人間に? ひどく馬鹿げていると、自分が道化になったかのように感じた。歩みを弛め、脇道に逸れてしまうことを決意したとき、しかし唐突に南野が振り返り、まるで声をかけられたか肩を叩かれたような感知のしかただ、その表情はすぐさま彼を認識してほころびた。

「浦飯さん」

 と流水のような涼やかさで彼の名を呼ぶその声には、幽助が背後を歩いていることに対する意外さはなく、まなざしはやはり揺らぎもせずに確信的だった。

 南野は当たり前のように幽助のとなりにおさまり、先刻と変わらない歩調で歩き出した。立って並ぶと南野のほうが身長がずいぶん高い。南野は幽助にわだかまりなくしゃべりかけた、最近むしあついですね、を皮切りに、もう夏ですね、梅雨ですね、ああでも何日か前から梅雨入りっていってるわりになかなか雨が来ないですけど、今日もけっこう晴れてますけど、オレの勘だと明日の明け方頃から雨ですよ、本格的に梅雨ですよ、いやですねじめじめしてるのは、風物詩っていったってなれるようなものじゃありませんよね、あ、でも、オレ雨自体はけっこう好きなんですよ、いちばん好きなのは屋内から窓の外の雨をながめて雨音を聞いているときで、くつがずぶ濡れになったりパンツの裾がぐしょぐしょになったりしないなら雨の中を歩くのも好きです、服さえ濡れても良いものならいっそ傘も差さずに雨に打たれるのも良いですけど、都会の雨は良くないんですよね、いやなにおいがするからあまり気持ち良くないんですよね…………南野の唇の端から言葉はとめどなく流れ出し、よくこんなにひとりでしゃべることができるものだと思いながら南野の声は甘く響くアルトで、耳あたりが良く、不快を感じさせなかったが、?いに言葉を切ったかと思うと、よく通る声ではっきりと、

「オレがしゃべるの、迷惑でしたか」

 といった。相槌もろくに打たぬ幽助に対する不満かと思ったものの、顔を上げると南野は余裕さえ見せて微笑しているようだ。学園きっての鼻つまみ者を前にして、不安や恐怖で饒舌になっているわけではない。

「オレがひとりでしゃべってるの、ご不快でしたら、口をつぐみますけれど」

「……そんなんじゃねえけどさ」

 無言の時間が数歩あった。幽助は意を決して息を吐いた。

「あんた、オレが恐くないの」

「怖くありません」

 拍子抜けするほどに簡潔な回答が返ってき、幽助はいささか戸惑った。どうしてそんなことを訊くのか、とか、あるいは無言だったり、そのような答えを幽助は予想していて、彼の予想を裏切ったかわりに南野は別のことをいった。

「浦飯さんのことについて、少し話をして良いですか。お気に障ることなどをいいましたらすぐに制止してどこがまずかったのかを教えてください。浦飯幽助、という名前の不良がうちの学校にいることは、この学校に編入してきたときから知っていました、浦飯を見たら目を合わさずにその場を去れ、と皆が口をそろえるんです、浦飯さんはずいぶん有名人のようですね」

「……あんた、案外遠慮がないね、オレについての噂話を当人の前でべらべらと」

「お気に障りましたか」

「……べつに」南野の饒舌は、あることないことをのべつまくなしあたり中にばらまくたぐいの雰囲気をは持っていなかった。

「それで、浦飯さんのことをそういう形で、知ってはいたのですが、興味はなかったんです、そういう人間て学校社会に限らず、どこにでもいるものですから、悪名高いひとや、不当に悪名を押しつけられているひとは。……『浦飯幽助』さんには興味はありませんでしたが、先日助けていただいた方に対しては、興味が湧きました。このあいだもいいましたが、とても強い、印象的な目を持っておられたので。だから、あれは誰だったんだろうといろいろと考えて、クラスメートに話を聞いてみたりして、それで、あのひとこそが浦飯幽助さんなのだと気付いた、というわけです。そしてあとはご存知の通り、助けていただいたお礼をするため、それからオレ自身の好奇心を満たすために、屋上に会いに行かせていただいた、と」

「…………あんた、実は性格悪いっていわれるだろ」

「あ、分かりますか。ナイショですよ、これでも普段は上手くカモフラージュしてるんですから」

 そのような台詞を、いかにも善良そうな微笑みとともに吐くので、たまりかねて幽助は笑いの気配の混じる吐息をいくばくか宙に放った。螢子以外の他人の前で心地良い思いで笑うのはずいぶん久しいことかもしれない、吐息の末尾は気恥ずかしさに濁った。興味、と南野はいったか。

「興味―――って、何。オレに興味があるって、どういうコト」

「それはとても良いご質問だと思います」まるで茶化しているかの回答であったが、常ならばささくれやすい彼の神経はこの時、穏やかに凪いでいた。「けれど、良い質問はえてして答えにくいもので……あ、オレ、ここで左折なんですが。浦飯さんはどちらでしょうか」

 ふたりはいつの間にか、以前幽助が南野を助けた(と思われる)商店街を抜け、車の多く行き交う交差点に差しかかっていた。南野は左折だというが、幽助は信号が変わるのを待って直進である。彼の行く先を遮っている信号が黄色に変わった。じき、彼の前には、南野とは隔たった道が拓ける。先刻望んだはずの、それが。

「……少し、立ち話を許していただけますか」

 それは幻惑のような響きを孕んで彼の耳許の風に散った。幽助は頷いたが、自分の意志でそうしたのではないような気がしていた。


「浦飯さんに対して抱いている興味って、実はオレ自身もよく分かっていないんですが……とても大雑把にひっくるめるなら、知りたい、ということでしょうか。浦飯さんのことを」

「あんたが、オレのことを?」つい鼻の先で笑ってしまった。「あんたみたいな優等生が、オレを?」

「ひとがひとに興味を持つのに、そういうの、関係ないと思います。不良とか優等生とか、そういう、世間の貼ったレッテルは」

 幽助は口をつぐんだ。南野の言葉はそのまま、彼が普段思うところで、しかし彼に面と向かってそれをいった者は、今までいなかった。

 南野のことは、最初から、普通とは少し違うやつだと思っていた。幽助の前にいて、狂犬に噛まれる怯えを見せることはなく、かといって成績優秀で学園全体に覚えが良いことを鼻にかけるわけでもない。いったいどういうことなのかと彼の中でわだかまりつつあった疑心が急にほどけた気がした。南野の意識のなかでは、南野は優等生ではないし、幽助もまた不良ではない。南野の目に、浦飯幽助は対等なのだ。南野は口許の微笑を崩すことなく続けてゆく。

「実のところ、オレも戸惑っています、今までこういう興味、他人に対する興味というのを、覚えたことがないんですよ。とりあえず、この16年ほどは。ひとに対して興味があるって、いったいどういうことなんでしょうね、オレのクラスメートたちの何人かは、オレがこの学校に入学してきたときにオレに、興味があるから友達になりたいっていってきましたけど。正直それってよく分からないんです、教室内ではオレも彼らとつるんだりしますけど、教室を出てまで彼らとのつながりを保ちたいとは思わなくて、まあ、彼らがそれで満足しているんなら、それで良いんですけど。あ、オレなんだかよけいなこといっぱいいってますね。ええと」南野は照れくさそうにはにかんで、そういう表情をすると南野はきつい陽光の下に、幼い少女のようにも見えた。教室の中の『友達』たちにも、南野はこんな表情を見せるのだろうか。「浦飯さんに対して具体的な欲求というのは、ないような気がするんです、友達というのがああいうものなら、浦飯さんとそうなりたいというのは興醒めですし。だから……そうですね、とりあえず、こんなふうに、顔を合わせるタイミングがあれば、こちらから声を掛けることを、許してもらえないで?ょうか」

 幽助は、自分が南野に対して好感を覚えていることを認めざるを得なかった。南野は幽助に向きなおったままずいぶん長い間ひとりでしゃべったが、おしゃべりだったり口が軽かったり、南野の口調はそういった印象には結びつかない。口調は軽妙だったが南野が言葉をしっかりと選んでいることは容易に見て取れたし、南野はまた、自分を説明する言葉を惜しまない。それは、自分の思うところをできるだけ正確に、幽助に伝えようとしているということではないのか。それは誠意であるとはいえないか。

 錆び付いたように上手く動かない声を押し出して、いいよ、というと、南野はやはり相変わらず微笑し続けていて、しかしどこか嬉しそうだった。つい軽口が出た。「けど、オレなんかとしゃべってたら、あんたまで不良と思われるぜ」

 すると南野は返した。「案外、世間体を気になさるんですね」

 これには脱帽した。世間体、それは彼が常に、教室の中で教科書も広げずガムを噛んで窓の外を眺めたり居眠りをする彼を見て見ぬふりをする、クラスメイトや教師連中に対して感じていることだったはずだ。

 ともかく、彼の沈黙は会話の切れ目となり、南野はやはりに笑いながら、じゃあ、オレはこれで、会釈した。そうして一度は背中を見せたが、すぐに振り返って、やはり笑ってはいたものの、迷いがまなじりに沈んでいた。なに、と問うと南野の目は幽助の頭のてっぺんから爪先までを走り、また目の高さに戻ってきた。笑いは苦笑になっていた。

「言うか言うまいか迷っていたんですけど。もしかして、オレがまったく勘違いしているだけなのかもしれないんですけど。あのとき、あ、助けてもらったときです、あのとき、オレには、あなたが人間ではないように見えました。人間以外の生物なんじゃないかと。……だから、たぶん、オレはあなたに興味があるんです」

「なんだそりゃ―――人間以外って、ユーレイとか、バケモノとか?」

 幽助は声を出して笑った。『人間以外の生物』、それは、あれほど一言一言に正確を期した南野の台詞とは思われない不確定な響きに満ちていて、そのことに奇妙に安堵していた。正確すぎる南野は外部からは立ち入りにくい。南野も声を出して笑い、そうですね、変なことをいっていますね、といって具体的な説明をしなかった。その無回答に不愉快をは覚えなかった。

 南野は、じゃあ、また、と軽く手を振って幽助に再度背を向けた。今度は振り返らなかった。また、といいながらふたりは次に会う約束をしなかった、そのことが少しだけ寂しいようにも、少しだけ心地良いようにも感じられた。

 南野の勘は見事に的中した。天候のことだ。幽助と南野が学校帰りの道端で立ち話をした翌日の朝から雨が降りはじめ、日によってはほんの数時間の晴れ間をのぞかせつつも、雨は一週間近く続いた。南野のいったとおり、本格的に梅雨入りなのだと天気予報は報じた。

連日の雨は大気に、肌に直接まとわりつくかの分厚い湿度を与え、それを助長するかのようにいやに気温が高かった。蜘蛛の糸のように細く長く降る雨を窓ごしに見ながら幽助はときおり、古い記憶をたどるのである。小学生の、おそらく低学年かそこらの頃。このうっとうしく湿っぽい季節、公立の簡素な設備の小学校は窓という窓がびっしりとはりついた水滴に白く濁り、廊下の床は水をまき散らしたかのようにしどとに濡れた。おかげで上ぐつの底の、いつもなら歩くたびにキュッキュッといやらしく鳴るゴムは床とのあらゆる摩擦を失い、軽く床を蹴るだけでリンクをすべるスケーターよろしく彼らの小さな体は廊下をすべりまわるのだった。いまだ性差の意識も未熟な時期のこと、男子も女子も入り混じって、休み時間ごと、放課後ごとに子供らは廊下ではしゃぎまわったのだった。それを危険と見て取ったのか、ある朝の朝礼(その日も雨だったので、いつもは運動場で行われる朝礼は体育館に場所を移していた)で、ずいぶん薄くなった髪がさらにまだら模様になってしまった校長が、廊下ですべって遊ぶのは危ないのでやめましょう、といった。そんな呼びかけに応じるこどもはほんのわずか、多くはそれまでどおりに?み時間になると廊下で騒ぎまわるのであった。螢子は、学級委員だった螢子は、やめなよ、先生に怒られるよ、と金切り声で叫んでいたが、誰もやめたりしなかった。やがて担任の教師がすべる床をおっかなびっくり歩いてきて、やめなさい怒るわよと怒鳴った。誰しもがピタリと動きを止めたが、そのなかで幽助だけが相変わらず床と戯れていた。皆の前で、幽助だけが叱られた。

 南野は、雨を眺めているのが楽しい、といった。南野はいったい、雨のなにが楽しいのだろう? 南野にとっては雨は、あるいは良き思い出をともなったものであるのか。バカ高い学費をふんだくるこの学園は全教室が空調完備、窓が湿気で曇ることはない。

南野とは、あの日以来会っていない。「機会があれば」と、あの日の別れ際、南野はそういったが、彼らの間にそのような機会はなかなか訪れることはなかった。そもそも彼らは互いにすれちがうことすらも難しいふたりではないだろうかと、幽助は思うのである。南野は高等部で幽助は中等部、両者の教室棟はたがいに離れていたし、昇降口も別の位置にある。すれちがう可能性があるとすれば、理科室などの特別教室や教官室が詰まった特別教室棟、だがそれではただすれ違うだけだ。言葉を交わすひまなどあらばこそ。図書室や、あるいは食堂ではどうだろう? しかし学園きっての秀才と名高い南野と、自分が、言葉を交わしているさまを、周囲はどんな目で見るだろうか。

 自分たちの間に『機会』など、おおよそ用意されていない。あるとするなら偶然という名のそればかり。

 そんなことを、幽助はとっくに気付いている。……だが、幽助はあの日以来、学校にやってくる自分を止めることができない。必ずしも一限目が始まる時間に間にあう登校ではなかったが、湿気のせいで普段ほどには思い通りにならない髪をむりやり固め、ちゃちなビニール傘を掲げて、肩の端やズボンの裾を濡らしながら繁く登校する自分(それはほかの生徒にとってはまったく当然の登校風景であったのだが)を、まったくらしくないと彼は思う。螢子は、彼女がせっつくわけでもないのに毎日学校にやってくる幽助をいぶかりながらも、なにか良いことあったの、と喜んだ。クラスメートたちは、ただでさえ鬱陶しい天気が続くのに、よけいに気分が悪くなる、どこかの異分子のせいで。そんな目で彼を見た。

 南野の勘が、少なくとも天候に関しては素晴らしく良いことはすでに証明された。ならばついでに、雨はいつ止むのかということも予言してくれれば良かったのに。分厚い雲のたれこめた空を見上げながら、幽助はひどく身勝手で都合の良いことを呟いてみたりした。そうすれば、ぶらりと屋上(あの、南野が幽助を訪れた屋上だ)に出向いてみるなどもしてみるのに。別れ際に、少しだけ心地良く感じた、次に会う約束をせずに去った南野の背が、今ははがゆくてたまらなく感じる。いつになったら彼らはまた、顔を合わせることができるのだろうか。

 日を追うごとに、南野が彼の頭を占めてゆくことを、もはや否定できなかった。南野はきっと幽助ほどに幽助のことを考えてはいないのだろうと思うと、腹が立ってしかたなかった。

 南野は、今まで出会った誰よりも、少なくとも彼らの世代では誰よりもまっすぐに、彼を見た。その目を忘れることができない。

 次に会ったときには、必ず南野を殴ってやろう、彼は決意を固めつつあった。そうしなければ気が済まないように思う。

 その日は二日後にやってきた。南野を殴る日、ではなく、南野を殴ることのできる日、である。しかし幽助は南野に、鍛えあげたこぶしをふるうことはなかったのだ。一週間ぶりに空が晴れ、先の一週間が大気のぬかるみをすべて連れ去ってしまったかのように空気はからりと涼やかだった。

 昼休み前に屋上に出てみると、空がずいぶん立体的に見えた。パレットにひねり出したばかりの絵の具のように強くのっぺりとした空の青に載った、夏によく出るもくもくと分厚い雲は、上空高くにある陽の当たる場所なのだろう光り輝くように真白い部分と、より地上に近いのであろう影になって灰じみた部分がくっきりと分かれ、絵に描いたような鮮やかさだった。手を普段よりもすこし長く伸ばせば、指先が雲に触れ、わた菓子の一端をちぎるように雲をちぎってしまえそうだった。季節は本格的な夏にさしかかっている。

 いつもの北向きの壁にもたれて座り込んで、彼はいつものように煙草をふかしていた。この立体的な雲に比べると煙草の煙はひどく軟弱に見えた。煙をたゆたわせながら幽助は待った。待った? そうだ、彼は待った。南野がやってくるのを、ではなく、時間が経つのを、である。南野が昼休みに、食料を詰め込んだ紙袋を手にして、立ち入り禁止の屋上に――この場所に――あらわれたのは、十日ほども前のことであったか。次に南野に会えるとすればこの場所以外にありえないと幽助は信じており、しかし、彼は南野を待たなかった。南野を待ち、南野が現れることを期待し、結果がそうならなければ、きっと彼は落胆するだろう。あらわれるかどうかすらうろんな他人を待ちわびて叶えられず落胆する自分は、見るにたえるものではない。彼は南野を待たなかった。ただ、この場で時間をつぶすばかりだった。

 昼休みを知らせるチャイムが鳴った。いつもどおり、学校全体がにぎやかに騒ぎはじめ、幽助は軽いめまいを覚えた。はやく時間が経てば良い、と、まるで切実に思った。だが彼は、その騒々しさのなかに、屋上のドアが開く音を聞き逃すことはなかったのだ。ドアの閉まる音は彼の心臓に針で刺すかの痛みをあたえ、ひたひたと近寄ってくる足音は彼の鼓動を早くした。

「……お久しぶり、です。浦飯さん」

 顔をのぞかせた南野は、穏やかな声音でそのようにいった。逆光によく表情はうかがえぬも、笑っているようだった。

「…………よう」

 頬を引き締めながら、彼はくぐもる声で応じたのだった。

 あいかわらず、昼食の算段を失念していた幽助に、南野はおもむろに弁当箱を差し出した。きちんとふたり分が用意されている。南野の手作りなのだそうだ。南野にすすめられて箸をつけてみると、なかなかの美味である。

「といっても、ほとんどが、母が昨日作った夕食の残り物なんですけどね、その生姜焼きも、里芋も。そのイカのフライは冷凍食品ですし。オレがやったのは、冷蔵庫の野菜くずを集めて炒めて、ごはんに梅とジャコを混ぜ込んだだけなんです。だから、手作りなんていえるほどのものじゃないんですよ、お恥ずかしいながら」

 幽助はいちいち、ふんふんと相槌をうちながら早々に弁当箱の中身を掻き込んでしまった。恥ずかしながら、というが、男子校生が朝っぱらから、残り物を使っているとはいえ、弁当を作ろうとする心がけは、たいそう立派なものではないだろうか。南野は自分の弁当の中身をゆっくりと片付けながら、にこにこと笑っている。

「気に入っていただけたんでしたら、なんでしたらまた作ってきましょうか。どうせ毎朝やってることですし、だから、ひとりぶん余分に作ったって、まったく手間ではありませんから」

 突然の申し出に答えを返しあぐねている幽助に、南野はなおも言いつのる。

「でも、浦飯さんに会えるタイミングって、考えてみればずいぶん少ないんですよね、校舎が違うのはすごく大きいし、浦飯さんはいつも屋上にいらっしゃるようじゃないですし、この間みたいに帰りにばったり会うのはなかなか難しいですし」

「……そーだな」

「中庭とか食堂とか、そういうひとが多いところでは、浦飯さんがおいやでしょうし」

これには幽助はずいぶん面くらった。南野の言葉は、幽助の思惑をうまいぐあいに射抜いていた。

「……なんでそう思うの」

「いえ、そんな。深い理由なんてありませんけど」南野の声に慎重さが混じった。「なんとなく」

なんとなく? 幽助は無性に腹立たしくなった。他人に自身の心を握られているのはあまり快いことではない。そういえば南野はいつも、分かったような物言いをする、あらゆることを、幽助のすべてを、分かったような物言いをする。その理由が、なんとなく、だと?

「あんたさ、どうしてこんなにオレ……オレのこと追っかけまわすの」声はいやに荒くなった。「オレの評判、知ってるだろ、喧嘩っ早いし、だからあんた殴られるかもしんないんだぜ、今ここでさ。分かる? フトウなボウリョクってやつよ、あんたそんなの受けたことなんてないだろ? あんたとオレはさ、世界が違うんだよ、住んでる世界がさ。あんた、オレに興味があるっつってたけど、わざわざオレなんか選ばなくてもいいだろうが、好奇心でつつきまわすんだったらほかのやつでやってくれよな」

まるで一息に吐き出してしまうと、微笑ばかりを浮かべていた南野は一転して、仮面のように無表情だった。南野と目が合うと心臓に痛みが走った、怒りの熱は吹き飛び、次いで襲いかかってきた激しい後悔に頭が冷たくなった。南野はもう手作りの弁当を持って屋上にやってくることはないだろう、という思いが確信めいて彼の胸中を支配した。仕方がない、彼は膝の上の弁当箱を片づけ南野の脇にそっと置いた。立ち上がった。

「弁当、マジ美味かった。サンキュ。……じゃあな」

しかし南野は去りゆく彼を呼ばわった。

「浦飯さん」

 静かな、静かな声だった。

「浦飯さん、オレの不用意な憶測がお気に障ったのなら謝ります。でも、そんなことでオレの好意まで否定しないでください」

 幽助は振り返った。『好意』?

「恥ずかしいから何度も言いません、だからよく聞いてください。浦飯さん、オレはあなたに好意を抱いています。……好き、です。だから浦飯さんと昼ごはんを一緒したいと思いますし、毎日弁当を作ってきても良いと思います。それではだめですか、納得していただけませんか?」

「……好き?」今の自分はどんな顔をしているだろう、幽助は思う。「あんたがオレを?」

「繰り返さないでください。恥ずかしいじゃないですか」そのように言いながら、南野はとくに様子の変わった様子もない。「そうです」

「……なんでオレを? あんた、オレのことなにも知らないくせに」

 言ってから、唇の端をかんだ。またいらないことを言った、南野を突き放すようなことを。だが南野は意に介すふうもない。

「それこそ、オレのほうが知りたいくらいです。でも、オレは浦飯さんの顔を見たら、少し楽しい気がします。浦飯さんといると、もっといろんなことを話したいと思います。――そういうことを感じているのに、理由は必要ですか? オレが浦飯さんに好意を持つことに、理由が? もちろん、そういうのはオレの自己満足ですし、それを浦飯さんがご不快ならオレは引き下がるしかありませんが、浦飯さんがオレといる時間を少しでも、悪くないと感じてくださっているのでしたら、オレとの接触を、少しでかまいません、許していただけませんか」

 南野が言葉を切ったあと、ふたりはしばらく口をつぐんだままだった。凛としたまなざしで彼を見上げる南野の膝の上にはまだ食べさしの弁当が乗っていて、強い日差しに、里芋や生姜焼きは、痛んで乾いてしまうのではないかと心配になった。両者のアンバランスが、彼にかすかに余裕を与えた。好意に『なぜ』は必要ない、それはたしかにその通りだと、南野を見おろしながら幽助は思った。現に今日、彼はこの屋上で南野の来訪を待っていたではないか。

 南野が口許をほころばせた。

「明日も、お弁当を作ってきます。かまいませんか?」

 幽助は頷いた。

「ありがとうございます。雨だったら、階段のいちばん上にいますね」

 幽助はもうひとつ、頷いた。


 雨は日ごと、時間ごと、降ったり止んだりだったが、幽助は毎日逃れることのできない義務を負ったかのように、昼前になるとどこか人目を忍ぶような気持ちで屋上に足を運んだ。雨が降っていれば、屋上への階段の、最後の一段に座り込む。降っていなければ屋上に出て所定の位置に座りこむ。その頃になると四限終了のチャイムが鳴り、およそ五分も待てば南野が、弁当の入った袋を片手に現れる。使用頻度の低さに白く埃がたまっていた階段はいまや彼らの足跡の踏み分け道ができている。

 一週間も昼食をともにし、そのつどなにがしかの言葉を交わしていれば、おのずと相手のひととなりも見えてくる。最初は、なんてよくしゃべるやつだ、と南野に対して思っていた。しかし案外とそうではない。南野は、幽助が持ちかけた話題には敏感に反応し、適切な返答をするし、みずからもよく話題を振ってくるが、あることないことを寸暇を惜しんでしゃべるたぐいの饒舌さというわけではない。初めてこの屋上でふたりで並んで食事をしたときも、その後も、南野はよくしゃべった印象があったが存外にそうではない様子である。幽助は南野に抱いていた印象を早急に塗り直さなければならないようだ。

 と、いうような意味のことを何かのはずみで南野に伝えると、南野は笑った。幽助の無知や浅慮を笑うようにではなく。

「だれかの気を引きたいなら、とかく言葉を尽くすべし、とオレは思うんですよ。黙っていてもなにもはじまらない、と」

 と、南野はいった。

「ことばはコミュニケーションの手段としては不完全だとは思います。当人の語彙レベルや言語化能力によって相手に受け渡せる情報量は変わってきますし、一個人の考えがそのまま言葉になるわけでもない。現に、浦飯さんがこうしてオレを受け入れてくれるまで、オレは多くの言葉を費やしましたよね。それは、オレたちがまだお互いのことをよく知らなかったから、意思の疎通が上手くいってなかったから、です。コミュニケーションが不完全だったから、です。言葉って、交わしてすぐに通じるたぐいの手段ではありません。でも、きっかけにはなると思うんです、浦飯さんがオレに興味を持ってくれるぐらいには、有用だと思うんです。浦飯さん相手なら、本当は、殴り合いで仕掛けていくのがいちばん良いのでしょうが、それはオレの柄ではありません。だから、ね、ありていに言って、たくさんしゃべることで浦飯さんの気を引いていたんですよ。口数自体は状況に応じて変えてゆけばいいものですし……どちらかというと、話を聞くほうが好き、かな。オレは」

 南野は奇妙に達観している部分もある。投げやりになっている、とか、諦めているとか、そういう意味ではなく、とても淡々としている。深く追求してみると、自分の意見を持っていないわけではないのだが、同時に自分の意見を一切差し挟まない視点も多く持っているようだ。世界で起こっている戦争について、二種類の蟻の陣地争いに見立てて解説してくれ、その様子はワイドショーで勝手なことをしゃべる識者連中を連想させることもしばしばだったが、明確で決定的な発言をせず、最後には、この戦争がどういうものであるかというのは幽助が考えて決めることだ、と結んだ。南野の話のなかには、正義と悪も、英雄と悪役も存在しない、ただ詳細に語られる事実があるだけだ。オレは浦飯さんと意見交換をしているわけではありません、この戦争がどうして起こったのか、ということを情報として伝達しているだけです、だからジャーナリズムの真似をしているだけですよ、日本はおろか欧米諸国も忘れかかっているけれど、情報のみを速やかに伝達するという、ジャーナリズムの本義を、ね。

 そのような形で無意志的になることで、南野は世界中の人間が起こすあらゆるアクションに通じながら、同時に、それらのあらゆる事柄から自由だった。あるいは自分ひとりがこの世から消滅しても世界はなにも変わらないことを、ごく自然に知っているようだった。自分が地球という生命体の体内にいる一匹の雑菌にすぎないことを、知っているかのようだった。

 一方で、説教好きらしい一面もあった。といっても、もちろん、不良と呼ばれる幽助に対して、あるべき学生の姿とは、などと高説をたれるわけではない。あるとき、螢子のおせっかいを、具体的には学校に来いと毎朝のようにせき立てる彼女についての愚痴をもらしたところ、でも、それが嬉しいんでしょう、と微笑とともに返された。学校に来るのがうっとうしくて、せき立てられて、それでも来ようと思うのは彼女がそうしてかまってくれるのが嬉しいからなのだろう、あまり彼女を悪くいうものじゃない。と、短いひとことと微笑みの内容がそういったものであったことに気付いたのは、いつもの昼食の時間が終わってずいぶん経ったときのことだ。自説を押しつけるたぐいの説教ではなく、物事はさまざまな側面を持つのだから、一意的、一方的に考えてばかりではあまり良くない、ということをごく遠回しに教えるようなそれだった。もしくは、幽助に対する啓発のようなそれだった。年若いものにものを教えているというだけでいばりくさっている教師連中の長々と垂れ流すような、幽助という人格の否定では、それはなかった。

 南野のそのような、彼に対する干渉を、嬉しいと感じていることを、幽助はすでに自覚している。南野は誰に対してでも中庸な戦争の話をするわけでも、遠回しな説教をするわけでもないのだろう、無意志的になれるぶん、南野には、他人に対する興味が欠如している部分を感じないでもなかった。南野の話には相変わらず、クラスメイトの影はない。知人はいても、友人という言葉を聞いたことはない。無関心ではないだろう、しかしこのひとは観察者なのだと思わせられることは多かった。南野は、世界の摂理に触れ、社会の摂理に触れ、ヒトの摂理に触れる。外側から。世界の、社会の、人間の外郭に漂う霞に似たゆらめきを、理論と照らし合わせながら曲線の少ない箱で覆い尽くすのだ。人間が見えていないわけではないが、生物学者はマウスを慈しみはしても、動物実験をやめることはない。

 その南野が、些細な言葉の羅列であっても、間違いなく幽助という人格に干渉する。それはまぎれもない、南野の幽助への関心と好意の発露ではないだろうか。そのことが、屋上に向かう上り階段を蹴る足取りを日ごと軽くした。

 南野の言葉遣いについても、少し話をしたことがある。南野は初めて会ったときからいままで、変わることなく幽助に対して改まった口調を使い続ける。幽助と屋上で昼食をとることになった今でも、だ。時を経れば経るほどに幽助はそれに強い違和感を感じずにはいられなくなり、だからふいに口をついたのだ、南野は幽助よりも、学年でいうなら二年も年上で、そのくせどうして自分にそんな言葉遣いをするのか、年下の自分に対して奇妙ではないのか。つい、そう言った。

 と、南野はいつものように朗らかに笑ったのだった、純白の花に日が差すように、このひとの心がまっすぐで誠実でないと思うものなどいるはずがないというような、なにひとつ曇りのない笑いである。

「じゃあ、浦飯さんは、オレが最初から今みたいじゃなくて、タメ口なり、『年上としての』言葉遣いなりをしていたら、オレに興味を持ちました?」

 南野のいうとおりだ、と思った。いやになれなれしかったり、年上をかさにきて幽助を見下す態度を取ったものに、良い感情を抱いたことなどなかったではないか。

「敬語ってたしかに面倒です、相手とのあいだに距離を生むものですし、でも会話に日本語を使う限り、敬語は頻繁に必要なものですよね。敬語をなくすと途端に会話が乱暴になりますし。オレは浦飯さんと円滑に会話を進めたいと思っているので、まあ半ば習慣みたいなところもあるんですけど、浦飯さんに対してはけっこう意識して、敬語というか丁寧語ですけど、使ってきたんですね。……これに、違和感、感じているんですか。よそよそしさとか、そういうのを感じているんですか?」

 南野は首を傾げた。それは問いかけではなく、すでに了解していることに対して改めて形式的に確認を取る行動にほかならず、幽助は自分が、察しの悪いとんでもない慮外者のように思えて恥ずかしくなり、しかし否と返せなどしなかった。南野はすでに幽助の心を察してしまっているだろう、南野の言葉遣いの形式、南野のいうところのよそよそしさ、に対して幽助が、寂しい、と感じていることに、南野は気付いているのだろう。とすれば、否定は無意味、あるいは自分自身の感情、寂しいという気持ち、に対する否定になる。幽助はしぶしぶながら頷いた。南野はやはりにこやかにほほえみ続けている。

「敬語って、さっきも言いましたけど、相手とのあいだにある距離感なんですね、敬語はやさしいコミュニケーションですけど、相手に隔意も抱かせますね、隔意って、へだたりがある、かべがあるってことですけど。浦飯さんがオレの言葉遣いによそよそしさを感じているのは、オレとの距離に不満があるからでしょうか。物足りないと……オレともっと近付きたいと?」

 頷いた。自分の頬が赤くなっていないか、幽助はひどく心配になった。

「嬉しいです」

 南野は屈託がなかった。

「では、言葉遣いは改めます。うん。改める」

 そしてまた笑った。

「じゃあ、浦飯さん、っていうのもどうにかしたほうが良いかな」

 もっともな話だった。なにより、幽助がいちばんどうにかしてほしいと思っていたのがその、「浦飯さん」だったのだから。

「『浦飯くん』とか」

 幽助の柄ではなかったし、少なくとも南野にはそのように呼んでほしくはなかった。

「『浦飯』って、呼び捨て?」

 南野には似合わない、と思った。美少年といわれるだけあって南野は、全体的な線が細く、長い髪のせいもあってか、少女的な、柔弱な印象が否めなかった。名字での呼び捨てはあまりに体育会系だ。

「注文が多いなあ。じゃあ、名前で呼んでも良いのかな。幽助って、呼んでも?」

 それは、彼自身、あまりに予想外のことであったのだが。幽助、と呼ばれて彼はまたしても、自身の頬がさっと熱くなるのを感じた。

「どうしたの、顔が赤いよ。気に入らない? じゃあ、幽助さんとか、幽助くんとか……名前の呼び方って案外バリエーションに乏しいよね、結局、似たようなのをこねくり回してるだけで……」

 頬の熱は散ってくれず、熱をどうおさめてよいのかも分からず、幽助はただ頭を振った。これではだだをこねる子供と変わらない、と思ったところ、南野の微笑に邪気らしいものがかすかに混じって、どうしてだろう、そちらのほうが奇妙なまでに南野らしいように、幽助の目には映ったのだ。

「ねえ、幽助(・・)。オレが呼び方を変えるんだから、当然幽助も、オレのこと、名前で呼んでくれるよね。秀一って」

 それは至極あたりまえの理屈だっただろう、南野が幽助を『幽助』と呼び、幽助が依然『南野』のままでは、いかにもつりあいが悪いではないか。というのに、幽助はまったく、そのことを、自分が南野を『秀一』と呼ばねばならないかもしれない――いや、南野なら確実にそれを言及するに違いなかった――ことを、完全に失念していたのだ。そして、常にそうであるように、南野は幽助のためらいや狼狽に鋭敏だった。

「ずるいよ、自分だけ、恥ずかしい思いはしたくない、なんて。オレだってこんなやりとりは照れくさいのに」

 そう言いながら、恥じいる様子などどこにもなかった。無邪気なのか邪気だらけなのか分からない表情で南野は笑っている。

「ねえ、幽助。呼んでくれるでしょう、秀一って?」

 南野が――秀一が押し迫ってくるものだから、幽助は慌てて首を縦に振らないわけにはゆかなかった。

 のちにこのときのことを思い返すだに、幽助はつい笑いを覚えずにはいられない。このようなやりとりは、『普通の友人同士』であれば、ごく自然に、暗黙の了解にも似た形で素通りしてしまえる、たがいとの交流のうちのほんの一段階でしかないのではないか。だというのに、かれらはいちいち、ひとつひとつ、自分たちの気持ちを言葉で確認しなければ前に進めない。なんという不器用、無見識。笑いがこみ上げるのだ、ふだんの南野秀一は、ありとあらゆる魯鈍な形容詞からは遠い位置にいるように見えるというのに。

 そういえば、南野秀一は、他人に対する興味というのがどういうものなのか、よく分からない、といった。学校の教室にいるのは『知人』たちなのだと。『友達』などいないのだと。性格が違う、価値観が違う、頭の作りも所作のひとつひとつも、なにもかもが違う、彼らはそんなふたりであったが、それでも似通った部分がないわけではないのだと、気付いて幽助はおかしくなるのだ。まるで光と影のように対照的な一対のふたり。

 だから彼らは呼び合うのか。秀一は幽助をして「魅力的だ」などと過大な物言いをするのか。幽助も気付きはじめている、自分が南野秀一に惹かれているということに。となりにいることが不快ではないという、それ以上に、秀一のとなりに自分がいることがごくごく自然であることと受け入れ始めているのだということに。ならば、彼らはそろそろ――友達、というべき一対なのか。

 そのことを、秀一に面と向かって問うことは、まだ、できない。そんなことは照れくさすぎる。けれど秀一を思い浮かべて胸がほっこりとあたたまったり、疼くような気分になることは、ある。

 梅雨の不機嫌な空模様が続いているにもかかわらず、ごくまっとうな生徒のように学校に顔を出す幽助を、喜びながらもいぶかしむのは螢子である。

「どうしたのよ、どんな風の吹き回しなの? あんたが毎日、学校に出てくるなんて。もちろん、悪いっていってるわけじゃないんだけど。なにか楽しいことでも見つけたの?」

 楽しいかどうかは分からない、ただ、秀一と過ごす時間は、すっぽかせない、と感じている。

 ごまかすようにそっぽを向く幽助に螢子は、ほらやっぱり楽しそう、と呟いた。


 授業に出席してはいても内容を聞いているわけではない幽助が、テストが近いことを知ったのは、秀一の口からだった。昼休み、秀一の来る時間がいつもよりも遅い日が二日続き、それに対してどうしたのだとさりげなく問うと、テストが近いから、と秀一は苦笑いをこぼしたのだ。

「テストが近いから、分からないところを教えてくれって寄ってきてね。クラスメートがね。質問なんて先生にすればいいのにね」

 そのように言う秀一は、成績優秀という点でも学内では有名であるが、本人のいうには学習塾などには通っておらず、夜遅くまで勉学に励んでいるわけでもないという。ではどこで勉強しているのかというと、授業中、なのだそうだ。授業に集中して教えられることをすべてきちんと吸収してしまう、そうすれば、あとで復習のために余分な時間を割く必要はないのだ、と。そんな自分を秀一は、面倒くさがりなだけだと言うが、ただ面倒なだけでそれができるなら、学習塾など用がなくなってしまう。やはりこのひとは高い能力を持ったひとなのだと、思わずにはいられなかった。そして、そんなこのひとは、当人がどう思っていようと、周囲の憧憬の念を刺激せずにはいられないに違いない。勉強を教えてほしいと声を掛けるクラスメートの目的は、必ずしも勉強だけではないのかもしれない。

 そのようなことをぼんやりと考えながら弁当箱のふたを開けていると秀一が、

「幽助、テストに向けていっしょに勉強しようか」

 といった。今日の弁当の中身は、鶏肉のピカタを中心に、ブロッコリーとミニトマトが彩りに入っており、小松菜と大根と油揚げの煮物がしぶい。梅干しとおかかを混ぜ込んだごはんでにぎったおにぎりがいくつか。今日も美味そうだ、と思いながら幽助は秀一の言葉を胸の中で何度か反芻した。それは秀一からの、思いもよらぬ申し出だった。秀一は同じように弁当箱を開けながら、心なしか照れくさそうだった。

「なんだよ。おまえも、オベンキョしなさい、成績はよくなくちゃ、ってクチ?」

 幽助の成績はいつもひどいものである。授業などまともに受けもしないし、もとより勉強しようという気がないから、良い点など取れるわけがない。それについて彼は特に釈明をする気はない、したくないからしないだけだ。母もそんな彼になにを言うでもない。ただ螢子と、おせっかいな国語教師が、テストが近くなるとそのことで彼を常につつきまわして、それに対しては多少の苛立ちを覚えていた。そこに秀一までが加わるのか、と思ってうんざりする思いだった。しかし意図して棘を含ませた言葉に秀一は気を悪くした様子も見せない。このひとはここのところ、幽助の扱いを分かってきたようだ。

「そういうわけじゃないよ。なんていうかね、ふたりで勉強、なんて、ちょっと良いシチュエーションかなって思ったんだよ。中高生って感じだよね。いやなら良いんだ、気にしないで」

 だから幽助は想像してみた。自分の部屋に持ち込んだテーブルにふたりで向き合って座って、勉強に取り組んでいる幽助と秀一。ありがちな光景かもしれないのに今まで経験したことのないそのシチュエーションを、ちゃんちゃらおかしいと思いながら、幽助は笑わなかった。

「……おまえがしたいんなら、する?」

 気まぐれにそういってやると秀一は笑って、

「うん。する」

 本当に嬉しそうな顔をするのだ。

 まったく変なやつだと、未だに秀一に対しては思わずにはいられない。ひどく頭が良いくせに、特別な勉強などなにも必要ないような学園きっての秀才のくせに、幽助との勉強会のなにがそんなに嬉しいのか。秀一ならば、望めば誰とのあいだにでもそれを手に入れられるはずなのに。必ずしも幽助とのあいだにそれを求めなくとも、かまわないはずなのに。

「じゃあ、今日、放課後にね」

 弁当は美味で、幽助はぺろりとたいらげてしまった。

 放課後、幽助が校門前で待っていると、螢子が数人の友人たちと下校してきた。彼女はめざとく幽助を見つけると、友人たちの輪を外れて幽助のところにやってくる。

「今日は授業、最後まで出たの? えらいじゃない。……どうしたの、誰か待ってるの?」

「べつに」

「なによ、つっぱっちゃって。ほんと最近、こそこそしてるよね。いったいなにやってんのよ」

「こそこそなんてしてねーって。……行けよ、トモダチと帰ったらいいだろ」

「ふんだ、睨んだってこわくないですよーだ」

 そんなことをしていたから、やってくる秀一に気付かなかった。「幽助」と声をかけられて、思わずばつの悪い顔をしたが、螢子はそれには気付かず、秀一を見上げてあっけにとられた顔をしていた。

 帰る道々、秀一が螢子に、幽助と秀一のなれそめを語ってきかせた。不良から秀一を救ったことに対して螢子は、あんたもたまには役に立つことをするのねえ、と誉めているのやらけなしているのやら不明な物言いをしたが、彼女は秀一に対して非常な興味を覚えたようだった。秀一に、というよりはむしろ、幽助と秀一のつながりに、かもしれないが。彼女は秀一にいくつも質問を投げかけていた。

「先輩、こいつに話し掛けるとき、怖くなかったです? こいつ、目つきは悪いし、話し方も乱暴だし」

「怖くなんてなかったですよ、彼はやさしいひとでしょう。オレのことも助けてくれたし」

「でも、こいつの噂なんか、聞いてませんでした?」

「噂は聞いてたけど、それが本人の姿をそのまま現すものではないでしょう。オレは自分の目で見たものを信じるよ」

「幽助のどのへんを気に入ったんですか? 先輩とこいつの共通点って、なんだか思いつかないんですけど」

「共通点か……どうだろうね。少なくともオレは、彼のことをとても興味深いひとだと思って、だから、親しくしてもらいたいと思ったんだけどね」

「興味深いって……それ、こいつが不良だからですか? 不良が物珍しい、とか?……」

「それも彼の個性のひとつではあると思うけどね。でも、それ抜きでも彼は、とても魅力的なひとだと思うよ。彼は瞳にとても強い光を持っているよね、それがとても好きだよ」

「……おまえら、そういう会話、本人がいないところでやってくんね?」

 幽助をほったらかしで話に花を咲かせていたふたりは、同時に幽助を振り返り、そっくりな笑顔を笑んでよこすとまた、ふたりの会話に戻るのだった。

「先輩、私もいっしょに行って良いですか? 私の勉強も見てもらえないですか」

「オレが勉強を見るんじゃなくて、ただの勉強会だよ。ふたりでテスト勉強をするんだ。それでも良いなら良いですよ。ねえ、幽助?」

 ふたりはまた同時に振り向いて、そっくりな笑顔を向けてきた。否やといえるはずがなかった。

 そのように三人は幽助の家に集まった。コンビニでおのおので買ってきたジュースを傍らに置いて、おのおのの勉学に取り組んだ。といっても秀一は幽助のとなりが定位置で、幽助の勉強を見ることに専念せざるを得ないような状態でありはしたが。そんな秀一に、螢子は手短にまとめた質問をいくつか投げかけたのち、小一時間もするとさらりと引き上げていったのだ。

 螢子が帰ってから秀一に、うるさいやつだろ、とこぼすと、

「良い子じゃない。幽助のことが心配なんだよ。彼女がオレにいろいろ聞いてきたのとか、勉強会に参加したのとか、あれはきっと品定めだったと思うよ。オレがどういうつもりであなたと親しくしているのか、あなたをいじめてるんじゃないか、気になったんだと思うよ。良い子だね」

 幽助は笑った。

「いじめてるって。オレがいじめるならともかくさ」

「いじめられてきてるんだよ、あなたは。視野の狭い、器の狭い、世間、というものからね」

 幽助のための問題文を作成しながらそのように、昏い気配もなくいうものだから、幽助はひどく奇妙な感じにとらわれてしまった。

「おまえって、なんつーか、……」

「南野先輩って、なんていうか、おとなね」

 翌日螢子は、幽助と顔を合わせるなり言ったものだ。

「直接話した感じもそうだったけど、あんたと話したり、あんたの勉強見てるところを見てたら、すごく、おとなだなあって。今までに見た誰よりも、おとなだなあって。私、部活で高等部の先輩たちを見て、おとなって感じがするなあ、素敵だなあって思ってたけど、南野先輩はぜんぜん違う、もっとずっとおとなな感じ。あんたの勉強見てても、同じところをあんたが分かるまで、何回でも、何回でも、教えてたでしょ。あんたが分からなくても、ぜんぜん怒らないで、ずっとやさしかったでしょ。あれ、すごいよ。あんなに根気強くなれないよ、ふつう。本当の先生よりもずっと先生らしかった。あれで、私とふたつしか違わないんだよね……私も二年したら、あんなふうになれるのかな。っていうか、どうやったらあんなふうになれるんだろう。あんなひと、本当にいるのね。ほんとに不思議なひとね。先輩って」

 彼女が声をひそめているのはおそらく、教室にいる周囲の生徒たちに話の内容を聞きとがめられないためだろう。幽助が誰かと会話している光景だけでも目立つというのに、ましてその内容が南野秀一がらみであるとすれば。素知らぬふりで聞き耳を立てるものは決して少なくはあるまい。そろそろ幽助も気付きはじめている、程度の差はあれどこの学園にいるものは皆、多かれ少なかれ、南野秀一の名を胸に刻んでいる。

「でもさ、あんたと先輩が仲良いっていうのは、びっくりしたけど、すごくびっくりしたけど、でも昨日、あんたと先輩がいっしょにいるところ見てたら、なんとなく納得したな。先輩ってすごくおとなで、だからあんたのことが理解できるのかなって。あんたのこと受け入れられるのかなって。あんたと先輩、正反対だから、許しあえるのかなって」

 螢子は幽助を見上げると、笑った。

「友達、だね」

 あたたかな笑いだった。まるで我が身に起こった幸運に対する笑みのようだった。


後半に続く。

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