Cogito

※幽螢要素あります、お気をつけて。



 呼ばれた気がして、顔を上げた。深夜のことだった。

 眠りの途中で目が覚めるのは珍しい。物音がしたわけでも、何か不審な気配を感じたわけでもないというのに、目覚めた瞬間から頭は冴えていた。となりには眠る女の顔が。螢子。安穏とした寝顔、しばしば夜中に起きたときはその安らかさに彼の胸も安らぐものだ。けれど今の彼には何らの感慨ももたらさない。

 本能のように起き上がった。ベランダから外に出た。夜着のまま、裸足のままだ。手すりに飛び上がるのに彼には多少の跳躍も必要ない。今が昼間で余人に目撃されたなら自殺願望者かと騒ぎになるだろうが、この時間なら見ているものなどいない。上へ。音もなく上階のベランダへ飛び移り、風を切ってさらに上へ。そして屋上へ。

 目ははっきりと覚めているはずであるのに、思考力は霞がかかったように茫漠としておぼつかない。あるいは自分でない別の誰かが思考し、体を制御しているかのようであった。肉体が驚くほど流暢に動くのだ。自分のものではないかのように。この感覚を彼は知っている。どこでどんなとき自分はこうなったものだろうか。よく知っているようでどこか遠い。素足が踏みしめるコンクリートの冷たさのように、まるで他人事のよう。

 呼ばれた気がして、振り返った。本当に呼ばれたのかどうかは定かではなかったし、それはどうでも良いことだった。

 高く煌々と輝く月を背にするようにその人影はあった。月明かりに浮かぶのは見覚えのある顔。蔵馬だ。やあ、と柔和な声、けれど表情は見えない。声だけが穏やかに響く。

「こんばんは」

 なぜこんな時間に、こんなところにいるのだ、とは問わなかった。それはどうでも良いことだった。呼んでいたのはこいつだ、と思ったのは直感のなせる業なのか、どうか。この穏やかな声でもって彼の名を呼ばわっていたわけではないのだろうが、蔵馬の気配が、妖力が、意識が、彼に呼びかけていたのだろう。でなければこんな時間に目が覚めるはずがない。こんなところに蔵馬がいる理由がない。

「どうしたんだ。何かあったのか」

 近付く。声を掛ける。やはり自分の声のように聞こえない声を。

「ちょっとね」

 蔵馬は笑う。夜闇の中でも妖魔の眼は猫の目よりも光を拾う。けれど蔵馬の笑いは内心を見透かせない笑い。

「散歩中で」

 しかし蔵馬の言葉はすでに彼の耳には入っていなかった。別のものに意識を持ってゆかれている――なんだろう、これは。風はささやかだが蔵馬のほうが風上で、そしてそちらから流れてくるこの何かのにおい。これはなんだ。彼はそれを嗅ぎ慣れている。つんと鼻をつく鉄さびのにおい。血のにおい。

「……ああ。これ。分かった?」

 視線に気付いたのだろうか、笑っている蔵馬が取り出した左腕に巻かれた包帯の白さが、夜の中で眩しいほどだ。そして白色の中に染み出す黒いような赤。じわじわとそれは滲み続けているようで――胸を衝かれる気分になる。

「ちょっとヘマやっちゃってね」

 魔界政府の管理の行き届いたこのご時世、魔族が人間界でトラブルを起こすことは滅多にない。人間界ではどんな妖魔も、同族との小競り合いすら避ける。そんな世界で、どんなヘマをすれば蔵馬がこんな傷を負うのか? 料理中に失敗して腕を切ったとでも?

「……見せて」

 喉に絡んだような声が出た。蔵馬は素直に腕を彼に向けた。赤黒い染みが大きくなっている。包帯の下では今も鮮血があふれ出しているのだ。包帯を取った。蔵馬は何も言わない。しなやかな腕の内側に一条の傷。つい今しがた、鋭利な刃物でためらいなく切られたような美しい傷。けれどいま、幽助が行っているのは傷の検分などではなく。

 血を見ていた。夜のさなかでも魔族の目には朱く紅く映える血の色。馥郁と熱く香り立つ、その香り……。

 傷口を、どれほどの時間見つめていたものだろう。魅入られたように腕を血を見て立ちすくんでいる。腕を掴まれ傷口をむきだしにされたままの蔵馬が何も言わないのをいいことに。

 と、皮膚の上でなんとか保たれていた表面張力が決壊し、血は流れ出した。皮膚に色濃い軌跡を描いて流れ落ちてゆく血――身を乗り出した。無為に地面に散り落ちるのが惜しくてならなかった。思わず舐め取った。その美味に、全身が粟立った。虹色の光が舌の上で踊っているかのよう――口腔内に唾液があふれ、歯止めはたちまち利かなくなり、もっと、もっととそれを求めた。飢えきった犬のように夢中で血の跡を貪り、傷口にも口を付け、果ては傷を舌先でこじ開けてまで血の流出を求めた。その際、舌で触れた肉の味にもたまらない誘惑を感じたが、かけらほど残っていた理性で、なんとか、耐えた。

 衝動が過ぎ去り我に返ったとき――ゾッとした。今しがたの自分の行動のおぞましさに。その浅ましい所行を友人に見られたことに。我知らずその場に頽れると――蔵馬の声が優しく深く、耳元に囁いた。

「美味しい?」

 彼の脳をじわじわと侵蝕してゆくようなその声は、

「人間(ヒト)の血は、美味しい?」

 甘い甘い幻惑の気配を孕んでいて、

「幽助が望むなら、オレの腕の一本でも食べたってかまわないんだよ?」

 悪魔のように彼を堕落へと誘い込もうとするのだ。食べる。蔵馬の腕一本を? そんなわけ、

「そんなわけねーだろうが」

 抗うように突き放すように答えたつもりだったが、崩れ落ちたまま、おそらく口のまわりを啜った血で汚したまま、喉に絡んだ弱々しい声を出す彼の姿に説得力などなかったに違いない。だが蔵馬は彼の言葉に微笑み、それは先ほど見せていたような不透明な、得体の知れない笑いではなかった。穏やかな、あたたかみのある表情だ。幽助の肩を軽く叩いた。

「落ち着いたようだね。よかった」

 いわく、さっき会ったときからおかしかったから、と。気になったから来てみたのだ、と。

 先ほど、日付のうえでは昨晩のことになるが、蔵馬が幽助の屋台に顔を出したのだ。このひとが会社の帰りにふらりと立ち寄るのはままあることで、いつも通りにラーメンをだして談笑し、蔵馬の帰宅を見送ったつもりだった。幽助は。

 いつもと違っていた、と蔵馬は言う。おおむね通常通りには見えたけれど、普通の人間達には何も分からなかっただろうけれど、妖魔の自分の目にはまた違うものが見えたのだ、と。

 端々に野卑な獣の表情が垣間見えた。たびたび疼くようなたぎるような、妖気の揺らぎが感じられた。何より、螢子を見る目が違った。いつも通り屋台の手伝いに来ていた彼女に、獲物を見るような執着の強い視線を向けることが、たびたびあったのだ、と……。

「これは危ないかも、とピンと来てしまって。オレもあるからね、そういう時期。自分の中の『魔物』が強く色濃く立ち上がってくる時期、というか。バイオリズムの関係だと思う。そういうときは衝動に流されてしまうことも多いけど……幽助には流されてはいけない最後の一線があるだろう」

 食人欲求という一線が。

 愛する者を喰らうかもしれないという業が。

「だから様子を見に来たのだけど。……よけいなお世話だったかな?」

 責めるでもなく慰めるでもない、あまり感情を見せず淡々と話す口調にこそ、蔵馬の気遣いがあるのだろう。

「……その、腕。ちょっとしくじったって言ってたくせに」

「うん。少し深くいきすぎた。もうちょっと浅く留めておくつもりだったんだけど」

「わざわざ切ったのかよ。バカヤロー。オメーの血なんざいらねっつーの」

「それはそれは。中途半端な混じりものの血で申し訳ない」

 自分を卑下するような言葉をおどけた調子にやんわりとくるんで、蔵馬は屈託がない。その蔵馬らしさに幽助は安堵しかかった、ものだが。

「じゃあ、次は適当な人間をさらってくることにするよ」

 にこやかに言う蔵馬の言葉にしばし、理解が追いつかなかった。

「大丈夫。誰にも顧みられていない、いなくなっても誰にも気付かれない、そんな人間は案外たくさんいるものだから。もちろん、魔界の法でも霊界でも人間を傷つけることは禁じているけど、証拠を残さないようにすれば問題ない。自分の意志で失踪したように見せれば良いんだよ、簡単だ。オレはそういう小細工は得意だし、自信はあるよ。オレが調達した人間を、幽助は好きにすればいいんだ。魔界も霊界も、目を光らせているのは人間界方面だけだから、魔界に持ち込んで結界にでもしまい込んでしまえばあとは、やりたい放題だしね」

 いったい何の話をしているんだ。蔵馬は続ける。

「『そのまま』というのが抵抗あるなら、調理もオレがしてあげるよ。血抜きして、開いて、中を掃除して……大丈夫、血も内臓もちゃんと取っておいて、余さず使うから。新鮮で健康だと内臓(ワタ)でも生で食べられるし、美味しいんだよ。ああ、でも、最近の人間は油ものやジャンクばかり食べてるから肉も内臓(ワタ)も臭いかもしれない……まあそこは香草をどっさり入れればどうにかなるんじゃないかな。しょせんは大雑把な男の料理にすぎないから、繊細さに欠けるのは大目に見てほしいところだけど、それなりに、『人間(ヒト)を食いたい』という要望には応えられるはずだよ」

 言葉の句切りに微笑む蔵馬の表情はいつものそれと同じだというのに。

「気が進まないかな。たしかに、自分の手を汚すことになるしね。人肉を扱った闇業者はいくらでもあるし、そういうところを使えばもっと楽だけど。オレとしては確実に自分でやり遂げたいというか、自分の知らないところから足が付くのがいやなんだ。オレはもう六〇年ほどは追われる身になりたくないし、まして幽助の経歴に傷が付くのはもっといやなんだ。さあ、どうしよう?」

 疑問符を投げてよこされたから、自分はここでひとつの決断を迫られているのだと気付いた。だが頭は痺れたように動かない。蔵馬の言葉が頭の中をぐるぐる回っている。『人間をさらって』『調達』『血も内臓も』『食いたい』。

「はは……蔵馬さん、冗談キツイっす」

「冗談なんか言っていないよ」

 やはり柔和な笑み。声。

「きみがきみの大切な人間(ヒト)を食べないための対策の話だ。大切なことだよ」

 その甘さ柔らかさの裏で蔵馬が、悪魔のように繊細に言葉を選び、紡いでいることはなんとなく、感じられた。

「食欲が、今回だけでおさまればいいのだけど、次のことを考えて一手を打っておくにしくはない。人間じゃない――もっと言ってしまえば、生命のヒエラルキーにおいて人間(ヒト)より上位に立つのであろう魔族(オレたち)としては、考えざるを得ない、一度は直面せざるを得ない問題でもある。これを機に、きちんと考えてみるのもいいかもしれないね。オレとしてはきみが大切な人間(ヒト)を喰らう事態になるよりも、そのへんのどうでも良い人間(の)で収めておくほうがずっと良いと思うんだ」

 ポケットから取り出した新しい包帯を腕に巻き直しながら、言うのである。

「まあそれよりは、混じりもののオレの血や肉をしゃぶって満足してくれているなら、それがいちばん手っ取り早くて気が楽なんだけどね」

 言葉を切り、あとはただ包帯を黙々と巻いた。持ち前の器用さ丁寧さで包帯はたちまち巻き上がり、蔵馬は立ち上がった。

「考える時間も必要だろうし、今日のところはこのへんで。何か用があるなら、いつでもどうぞ」

 そして蔵馬は去ってゆき、彼はマンションの屋上にひとり取り残された。呆けたように座り込んでいた、蔵馬の言葉を反芻していた。空が明るみ、曙光が差してきてもなお、彼はその場に座り込んでいたのだ。



 きっかけはその日のその衝動だったものだろうか。それとも蔵馬の言葉だったものか。以降、世界は幽助の目に少し違ったものに見え始めた、気がする。

 あの日あの後、朝になって起きだしてきた螢子に、

「ねえ。何か、疲れた顔してるわよ」

 と言われた。彼女がいつも彼の顔色をよく見ているのは分かっていたので、答えはすでに用意していた。

「昨日はかなり忙しかったからな。結局四時近くまで店、開けてたんだよ」

 『本当』を織り込んだ小さな嘘。本当は、店はもう少し早くに閉めていたのだが。

「そうなんだ、お疲れさま。そうよね、土曜の晩だったもんね。私が帰るときもけっこうお客さん、いたもんね。もうちょっと手伝えば良かったかな。次はそうする」

「オメーは一一時上がりでいーんだよ。肌荒れひどくなんぞ」

「もーうるさいなあ。……朝ご飯、作らなくて良かったのに。休んでれば良かったのに」

「オレが食いたかったんだよ」

 台所にはすでに食事の準備ができている。炊きたてごはん、きちんと出汁を引いた味噌汁、納豆、海苔、店の残り物のチャーシューを散らした玉ねぎとトマトのサラダには、同じく残り物の煮玉子を添えて。平日の朝はトーストにカップスープ、簡単なサラダに煮卵のディップ(螢子の作り置きである。もちろん残り物アレンジだ)など、少し軽めのメニューにすることが多いが、螢子のゆっくりできる日曜の朝は少し手の込んだものを作ることも多い。美味しそう、と呟くと彼女は身を翻した。トイレや洗面など、朝の身支度を済ますのだろう。味噌汁の鍋に火を入れ、茶碗を片手に炊飯器を開けると炊きたての米のにおいが広がり、彼は安堵した。米の、食べ物の、においに食欲を覚えた、ことに。

 朝食を準備する前、シャワーを使って念入りに体を洗った。着ていた服も何度も洗い、時間をかけて歯を磨いた。それでもなお血臭が漂っているような妄想を振り払うのに、少し面倒な朝食作りはいっそ良い機会だった。彼の懸念の一切に螢子が気付かず「美味しそう」と呟いたのは彼の成し遂げた大きな成果のひとつで、それでも――先ほど美味そうなにおいを放っていたはずの米には、味がなかった。

 彼らの共通の休日である日曜は、ふたりで出掛けることもよくあったが、食事を済ませると螢子は、

「ねえ。忙しかったんなら、今日は休んでなさいよ。私も片付けとか、家でやりたいこともあるし」

「オレ甘いもん食いてえ。どっか行こ」

「え。ケーキとかアイスとか……ドーナツとか、パンケーキとか?」

「なんでもいーよ。甘いもん」

 えっと、えっと、何よ急に、なんでもいいなんて逆に難しいのよ、甘いもの食べたいなんてやっぱり疲れてるんでしょ、休んでればいいじゃない、などと呟きながら目を輝かせて携帯電話をいじり始め、好ましい店を検索し始める彼女を幽助は、噛みしめるような思いで見ていたものだ……

 味覚はその後、だんだんと元に戻ってきた。精神的な衝撃が一時、食事に対する味覚を狂わせていたのだろうか。

 人間に対する食欲は残念ながら、その時限りとはゆかなかったのだが。



 幸いにして、身の回りの人間達がのべつ捕食対象に見えるようになったわけでも、美味しそうな食材としか見えなくなったわけでもない。ただ、それまでなんとはなしに見ないふりをして、グレーゾーンに追いやることで避けていた事態が、これをきっかけとして目の前に立ち上がってきたのだろう。まるで人間そのもののような顔をして日々の生活を営んでいるけれども自分はとうに、根本的な部分からして人間(ヒト)ではない生きものになったのだ、ということ。自分が人間(ヒト)を喰らう可能性が未来においてあり得るのだ、ということ。自分はもう、他人(ヒト)とは異なる生きものなのだ、ということ。

 似た感覚を彼は以前から持ってはいた。まわりの連中の中で自分だけがどこかしら異質であるという――自分はどうあがいてもまわりに溶け込めない、受け入れあえない、そういった感覚はなじみ深いものだ。思い返すにかつて幼い子供だった頃、そんな思想を免罪符に彼は遊蕩の限りを尽くしていたのだから。未成年の分際ながら、飲酒に喫煙、賭博場に出入りして大金を手にしたり、あるいは一文無しになったり、暴力で問題を先送りにしたり……あの頃はなぜああもすさんでいたのか、よほどやることがなくて暇で欲求不満だったのか、よく分からないけれどもともかく、自分は他の人間とは違うのだという思いはあの頃から自分の中に深く根付いていた。あの頃、自分の傍にいてくれたのは螢子ひとりだった。

 考え方が変化したのはきっと、一度死んでからだ。今まで知らなかった世界に踏み込んで、自分と似通ったにおいのする戦友たちを得てから、自分が異質だとは自然と感じなくなった。結果的に自分はたしかに人間ではなく、多くの戦友らと同じ場所に属する生きものだったことがのちに判明したために、ああこういうことだったのか、と納得するに至ったものだが。

 そうしてひとたび気持ちが落ち着くと、『自分とは違った存在である』人間たちの間で暮らすことは、苦ではなくなっていた。人間たちと自分との間に齟齬、あるいは大きな溝を感じたとしても、別の生きものなのだから当然だ、仕方ない、と割り切って接することができた。古くからの友人や好ましく思う女に対してもそんな物わかりの良さを発揮しなければならないことに残念さがないでもなかったが、人間同士というのはそもそもこういうものなのだろう、と思うようになっていた。人外の友人たちと接する中でも、割り切りの感情は生じるものなのだから。価値観や感受性、視野、思考に嗜好、何もかもが自分と同じ人間などいるはずがない。不和を受け入れ、むしろそれを楽しみながら付き合ってゆく、ひととひとはそういう関係にある生物同士なのだ。たぶん。

 そこに至れば生きることは苦ではなくなった。おそらく、楽しくさえも。だから螢子と暮らそうと自然に思うことができて、今がある。

 しかしここに来て突然の自身の変化だ。ヒトを喰らいたい衝動を発した、という。

 繰り返すが、身の回りの人間や、あるいは人間という存在のあらゆるに対して食欲を覚えるわけではない。蔵馬は言っていたではないか、バイオリズムの関係だろう、と。バイオリズム、それは精神や感情や、ひっくるめると生命のリズムのことだ、と螢子は教えてくれた。波のように周期的に訪れる心身のリズムのことだ、と。

 なるほど、自分は今、人間を食いたいお年頃というやつなのか、と自嘲気味に納得する。自分の本当の父親が雷禅だと、人間を食う種の妖怪なのだと知ったとき、自分もいつか人間を喰らいたい衝動を持つ日がくるのだろうか、と頭をかすめなかったわけではないが、これまでのところ食欲を感じたことはなく、「過渡期なんだ」と言った雷禅の言葉を鵜呑みにしていた。だが過渡期はあくまで過渡期である、ということなのか。その途上にいる自分はおおむね人間は食わないが、たまには食いたくなる、そんな不安定な生きものでしかないということなのか。あれ(・・)以来、とりあえずは食欲はおさまっているようで、それがささやかな救いではある。

 無茶しやがって、と蔵馬に対しても思う。あの腕の傷、――を味覚の甘美な陶酔とともに思い返している自分はずいぶんとおぞましいと思うがそれはそれとして――幽助のためにつけたというあの傷は決して浅いものではなかった。もう塞がっただろうか。あれから三日が経つが、蔵馬とも連絡を取れずにいる。元気か、とも、大丈夫か、とも、おかげで助かった、とも、まだ言えないでいる。自分があまりに情けなく、いたたまれないのだ。どんな顔で蔵馬に礼を言えば良いものだろうか。

 それ以上に、蔵馬が怖いのかもしれない。人間を、食べたいなら食べろと、なんなら自分が捕らえてきてやる、調理してやる、と冷静に、いっそ笑いながら言った蔵馬が怖いのかもしれない。蔵馬の冷淡な、人間(ヒト)ではない一面を、受け止めているつもりで本当にはよく分かっておらず、それを目の当たりにしてしまったから? それとも、自分のために人間を切り刻んでやろうといった、蔵馬の心の重さが?

 ……しかし考えてみれば、同じようなことを過去の自分は言ったことがなかったか。死に際、飢えて狂いかかっていた雷禅に、自分は言ったではないか、人間を食え、と。なんなら自分がさらってきてやるから、と。

 だがあのときの発現はそんなに深くものを考えてのものではなかっただろう。目の前で苦しんでいる雷禅に何か言わずにはいられなかっただけではなかったか。雷禅が決して肯んじることはないのを分かったうえで、他にできることもない自分の無力に嫌気が差して、言っただけかもしれない、「食えよ」と。あのとき雷禅が彼に応じて人間を求めたならば、幽助は一体どうしていただろうか。本当に人間のひとりやふたりをさらってきて、雷禅のために引き裂いてやっただろうか? 自分と同じように、自分の母や友人たちと同じように、人生があり生きざまがあり、友があり、親があり、あるいは我が子がある人間を、そうと分かったうえで殺せただろうか。

 ――蔵馬ならやるのだろうか。すべてを呑み込んだ上で、蔵馬なら。


 〈後略〉

2016年初出。
おまけにコピー本(18禁)がついてきます。

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