空中庭園

 

(2018年6月発行。パラレルです)



外食をしたのは久方ぶりだったはずだ。

 ここしばらくはあまり外出もせず、出てみれば図書館へ行き、帰りに近所のスーパーで出来合いの食料品や生活用品を買い、家で食事をする、というのがルーティンであった。実際に今日の昼も図書館を訪れた。

 そのルーティンからなぜ逸脱しようと思ったのかといえば、肌寒さだ。暑さ寒さに強い体を持っているが帰り道、吹き渡る風が冷たいことに気付いた。おや、とあたりを見渡してみれば、道行く人々は皆、コートや分厚いジャケットを着込んでいる。長袖シャツにジーンズという格好の自分の姿は酔狂のように、まわりからは見えていたかもしれない。

 いつの間にか冬がやってきていた。今が何月の何日か、というのはしっかりと把握していたがそれと、実際の季節感とが結びついていなかった。これだからひとり暮らしの自由業は難しい。おかしなことをしていても誰も注意してくれない。帰宅してクローゼットからコートを引っ張り出し、そのまま足の向くままに家を出た。寒くなったのだと気付いて見渡せば、部屋はいかにも寒々しかった。

 外食が久しぶりだということは、できたての温かい食事を取ったのも久しぶりだということだ。なんということもない小料理屋の変哲もないメニューであったが、あたたかい、というだけで美味であり、ささやかな幸福をもたらした。白米、味噌汁、煮魚、わかめのしらす和え、新香。だし巻き玉子も追加で頼んだ。ずいぶんとよく食べた、腹が苦しくなるほどだった。だが自分の部屋の寒さ暗さを思い出し、テイクアウトできるという牛すじの土手煮と数種のてんぷらを頼んだ。女将はサービスだといっておにぎりをつけてくれた。考えてみればひとと言葉を交わしたのも久しぶりで、そんなことにも気付いていない自分がおかしかった。

 店でついついゆっくり過ごしたせいで、帰りは想定よりもも遅くなった。仕事帰りに食事を取ったサラリーマンやOLたちが帰途につき始め、駅方面への人の流れができている。その一方で、次の店、次の楽しみを求めて散ってゆく者達もいる。にぎやかで華やかな繁華街、皆が誰かと歩き、話し、楽しげで、まわりを見ていない。この街に住んで良かった、と思うのはこんなときだ。誰も自分を気に留めない。自分の気配は雑踏に紛れてまるで影のよう。それがいい。ときに部屋の温度が気になることがあったとしても、今の生活は静かで穏やかで、気に入ったものだった。

 帰り道、コンビニに入り酒を買った。帰って、空調を入れて、風呂に入る。酒と惣菜をあたためて、それらでちびちびやってから、寝るつもりだった。明日も明後日もその後も、数ヶ月は寒いであろうし寒さ自体はいい。だが冬なのだと、寒いのだと気付いてしまった今日だけは、自分をあたためてやろうと思ったのだ。

 そんな、平坦であたたかそうな予定が崩れたのは、コンビニを出た瞬間のことだった。

 突き飛ばされた――否、ぶつかった。路地から出てきた男。なんとか転ばずにすみ、惣菜と酒の包みも無事だったのは上出来だったがそもそも、こんな危機回避を怠ったのはおのれの平和呆けのせいに他ならず、自己嫌悪を刺激された。そして、災難だ、と思ったのは体制が整うよりも先に男の腕が自分のよろめく体を支え起こし、

「マジでごめんな、」

 唇で唇を塞いできたからだった。

 唇を奪うためでなく口先を封じるため。壁に背を押しつけられるのも、動きを封じるため。それぞれの意図は分かるが、深夜というほどは遅くない時間の、繁華街のコンビニの入り口すぐ脇だ。この無体な輩、どうしてくれよう――と思いを巡らせる間もなく、バタバタと走り抜けてゆく数人の足音。「いないぞ!」「どこ行ったんだあいつ」「こっちだ!」物々しい声、走り去ってゆく足音。あれは追う者達で、であれば追われているのはこの男か。男が唇と体を離した。呟いた。

「こんな漫画みてーなやり方、上手くいくもんなんだな……」

 その感想には大いに同意するところではあるが、もっと他に何か言うことがあるのではないか。

 視線が合うと、男は笑った。

「ほんと、ごめんな。キス、初めてだったんならノーカウントにしとけよ」

 そして身を返す。去ろうとしている背を、……呼び止めたのは何か考えあってのことではなかった。「待て」というと男は、敏感そうに振り返った。なに、と視線による問いかけ。

「怪我をしているんじゃないのか。血のにおいがする」

 男がジャケットの下に着込んだシャツには赤い染みが広がり始めている。

「あーあ。あいつら刃物(ヤツパ)持ってたもんな。あんた、服汚れた?」

「それはべつにいい」

 汚れていようと、いまいと。

「手当のあてはあるのか」

「んー。まあ、それなりに」

「その出血量は気になる。来い」

 野良犬に「餌をやるから来い」というと付いてくるものだろうか? 生まれてこのかた優しく抱かれたこともなく、誰も恃(たの)まず信じず、薄汚れた姿でとぼとぼと道を歩き、残飯をあさり、触れられそうになると牙をむいて威嚇する、そんな野良犬の体内には人間への敵意が満ちている。世界に裏切られ続け愛というものを知らないまま、自身のみすぼらしさに気付かず死んでゆく、そんな野良犬はこの世界にどれほどいるものだろう。来ないならかまわない、という気分で発した「来い」という言葉に、なぜだか男はついてきた。少し意外だった。

 男の先に立って歩き出しながら、自宅でぬくぬくと過ごすはずだった予定が崩れたことに気付いたけれど、あとの祭りだった。

 部屋に上げ、手当をした。男は辺りを見回しながら多少警戒しているようだったが、このご時世だ、無理もない。通りすがりの見知らぬ人間に、来いと言われたからといって大人しくついてきて、言われるままに服を脱ぎ、傷に触れさせるこの男は肝の据わったほうだろう。

 傷口は出血は多かったが、刃は内臓までは届いていないようだった。あり合わせの道具で縫ってやり、薬を塗ると、男は歯を食いしばって耐えていた。処置後、まだ痛むのだろう唇をへの字に曲げながら男は言った。

「ありがと。……あんた医者?」

「違う」

「えっ。なんか医療系の資格持ち?」

「何も」

「えっ。……ブラックジャック?」

「名医ではない」

「怖いんですけど」

「心得ならある。多分大丈夫だ」

 道具をしまう間ずっと、多分て、多分て、と呟いていたが。

「あのさ、……あんた、もしかして男?」

 失礼な質問だった。

「女性に見えるか」

「見える」

「……」

「うえー、オレ男とキスしちゃったんだ!」

「同じ災難をオレもこうむっているのだと気付いてくれると嬉しいものだが」

 男はしばらく言い訳だの文句だのを垂れていたが、

「時間を取らせたな。終わったぞ。明日、ちゃんとした医者に診てもらえよ。では、帰れ」

 というと、明らかに驚いた顔をした。

「えっ。このあとメシ恵んでくれるとかの展開は?」

 図々しい言い分だったが、腹は立たなかった。――気持ちが波立つような他人の言動など、この世にそうそうあるものではない。

「台所に何かあるだろう。勝手に食べろ」

 小料理屋から持ち帰ってきたものがあることも思いだし、渡した。コンビニで買った酒もだ。この男を家に入れた時点で、ひとり飲みの時間への期待など吹き飛んでいた。男は受け取って中をのぞき込み、美味そうだと無邪気に喜んだ。その笑顔にきびすを返し、シャワーを浴びることにした。

 簡単に体を流して出てくると、男は買ってきた料理だけでは物足りなかったのだろう、常備のレトルト食品を引っ張り出してきて食べていた。あんたは食べねーの、とかなんとか問われたので、もう食べた、いい、などと返して寝室に引っ込んだ。いつも通り眠った。

 朝、起きると男はソファで丸くなって寝ていた。体に巻き付けているのは洗面所から見つけでもしたのか、バスタオルであった。そうか、寒かったものな、などとひとりで納得して、家を出た。今日も図書館に行く予定であった。

 PCどころかインターネットにつながった端末が一つあれば何でも知ることのできるこのご時世であるが、対象に深く足を踏み入れ、その世界をじっくりと咀嚼するにはやはり、紙の媒体が好ましく感じる。また、図書館という空間は静かにして厳かであり、書物への没入を誘っているようだ。そのおかげか書物を開いている間は時間を忘れて読みこんでいることが多い。食事すらしばしば忘れるほどで、そんな時間を過ごせるのが楽しかった。ここにいる間は無心でいられる。――それほど必死になって読みたい書物があるわけではなかったが、抱え持った無聊を慰めるなにかが必要なのだ。だから足繁く図書館に通う。ここの本を読み尽くしてしまえば、また別の図書館を拠点として本を読むのだろう。それをこの先、何度も繰り返すのだろう。

 そして木枯らし舞う帰途、多少の満足感を覚えるのである。今日という一日がおおむね、つつがなく過ぎ去ったことに――

 帰宅の頃、すでに日はとっぷりと暮れていたが、部屋は明かりがついており快適にぬくもっていた。昨晩拾ってきた野良犬が、まだいた。

 まだいたのか、と直接的な言葉をかけると男は唇をへの字に曲げて、

「出ていくにしても何か一言言っていくでしょ、フツ―。オレだってありがとうぐらい言えるんだぜ。なのに家主いねーし、いつまでたっても帰ってこねーし、出るに出らんねーよ」

 それもそう、なのだろうか。では家主が帰宅した今、男は一言言って出ていくのかと思えば、

「メシ食った? まだ? んじゃピザ取ろーぜ、ピザ。冷蔵庫の中のモン、いただいたんだけどさ、空っぽになっちまったから。ピザ何がいい? あんたの好きなのでいーよ。サイドにチキンつけようぜ。あとサラダ、あんた食う? 飲みもん何がいい?」

 ということで、あれよあれよとピザが届けられた。男と並んで食べながらテレビを見た。民放を、というかテレビ番組を見たこと自体がとても久しぶりだったかもしれない。バラエティ番組はにぎやかで、芸人やタレントたちがあれこれ会話をするのの何が面白いのかよくわからなかったが、男は笑っていた。笑いながら、男自身もなんだかんだとよくしゃべった。この部屋の窓からの眺めが良いだの、レトルトの品揃えがすごいだの、冷蔵庫が緑の液体ばっかりで怖いだの、傷の治りが早いだの。「もうかなりくっついてるみて―なのよ。あんたマジで名医?」と笑うので、若いから治りが早いんだろうなどと適当に返しておいた。

 食べ終わっても、シャワーを浴びてきても、男はいた。出てゆく気配を見せなかった。

 寝る時間になったので、寝た。

 朝、男に金の無心をされたので、渡した。たいていはカードで済ませてしまうので現金はほとんど持ち歩かないのだが、緊急用に手元に置いてあった現金を渡し、こんな「緊急」がやってくることもあるのだなあと、何やら感慨深かった。男は出ていった。

 この日はPCでの作業が必要だったので、家から出ずに過ごすつもりだった。机仕事をし、借りてきた本を読み、小腹が空けば保存食をかじり――出ていった男いわくの『冷蔵庫の緑の液体』も補充しておかねばならないな、と意識を向けつつも、面倒でやりたくないなあ、誰かかわりにやってくれないものか、などとぼんやり考えていたところに、インターフォンが鳴った。この部屋のそれが鳴るのは何らかの業者がやってくるときぐらいのものだが、家事代行サービスのスタッフが来る日でもなければ通販を頼んだ覚えもなかった。他の部屋の客の間違いだろうかとインターフォンに応じたところ、モニターには見覚えのある顔が映っていた。

「おーい。開けてくれー」

 声にも聞きおぼえがあったので、ロックを解除した。……そのすぐ後、管理室から電話がかかってきた。今入ってきた若い男性がそちらの客だと言っているが間違いないか、通してもかまわないのか、と言葉を選んでいる様子で問うてきたので肯定しておいた。通話を切りながら、まあそうなるだろうなとひとりごちた。

 そのようにして数時間ぶりに部屋に戻ってきた男はへらへら笑いながら、

「いやー、警備のおっちゃん怖かったわぁ。コンシェルジュっての、フロントのスタッフがあんたに電話してる時、ずっとオレのこと睨んでてさあ。解放された時はすっげー謝ってくれたけど、そんでもなんかの間違いじゃないのかーみたいな顔してたし。まあおっちゃんらの気持ちも分かるけどー。オレどう見てもここの住人の友達って感じじゃないしー」

 そして抱えていた大荷物を紐解いてゆくのである。冷蔵庫に収められたり部屋の各所に振り分けられてゆく生活小物や洗剤などが不思議で、問うた。

「金が足りなくて戻ってきたんじゃないのか」

 男は眉間に思いっきりしわを寄せると、何やら口をパクパクさせていたが結局何も言わなかった。朝に渡した金の封筒を差し出して来、それはほとんど減っていないようだった。

「あんねー、あんた、オレがなんて言って金ねだったか、覚えてる? てか、オレが言ったこと、聞いてた?」

 どうだっただろう。覚えていない。

「シャンプーとか食材とか買いたいから金くれ、って言ったのよ、オレ。んでまーかなり買ったけどさ。さすがに三〇万はいらねーわ。だから残り、返しとく。レシート入れてあっから気になるなら見といて。――あ、あと、オレの服もちょっと買った。手持ちあんまなくてさ。そのうち返すから」

 そのうち。自分とこの男の間にそんな時間が来るのだろうか、男にはそんな未来の時間の想定があるのだろうか?

 それよりも。

「……なぜシャンプーがいる」

「なんでって。風呂にシャンプーがなかったからだよ。やっぱ頭はシャンプーで洗いたいだろ。てか、シャンプーないのって、もしかしてあんた、シャンプー使ってない? ボディソープで髪洗ってる?」

「なぜ髪を洗うんだ」

「質問無視かよ。髪洗わねーと男なんざすぐ臭くなるからだろ、バカなの? 冬だからって三日も頭洗わねーでいたら、体臭はもはや加齢臭だろ」

「三日も風呂に入っていないのか。汚いな」

「だからシャンプーとか服とか買ってきたんだよ! だいたい傷に良くないからしばらく風呂控えろってあんたが言ったんだろーが」

 そんなことを言ったのだろうか。関心のないやりとりなど記憶からすぐに削除される。

「あと、冷蔵庫も空っぽだからさあ! なんか食うもん調達しないとだし、洗濯物とかも溜まってきてるから、どうにかしねーとってさあ!」

「今日は弁当でもレトルトでも、飯抜きでも、適当にしのいでおけば良かった」

「は?」

「明日になれば家事代行サービスのスタッフが来る。洗濯と掃除と買い物と料理をしていってくれる」

「……あ。冷蔵庫にあった食いもんって」

「数日分の作り置きをしていってくれる」

「オレが食ったのか。ごめん」

「いい。オレも外食したりで余らせることもある。おまえが買ってきた諸々も、明日で調整してもらえばいいだろう」

 すると男はしばらく考えを巡らす表情で、

「あんたは家のこと、何もやんねーの?」

「やらない」

「やれないの?」

「面倒だからやらない」

「わー潔い。じゃ、オレがしてもいい?」

「かまわないが……」

「じゃーするわ。とりあえず洗濯して飯作る。あんたの分もやっとく」

「明日にはやってもらえるぞ」

「三日着た服とか、すぐ洗いてーもん。血抜きもしなきゃだし」

「洗濯機は使えるのか」

「あんなもん、どれでもだいたい一緒でしょ。あんたは使えねーの?」

「使えるとは思うが。やったことがないから分からない」

「……あの立派なドラム型乾燥機能付き洗濯機は、この家の据え置き家電かなんかなのかな~?」

「オレが買ったが。すぐに家事代行を頼んだから、使ったことがない」

 それはそれは、と脱力したように男は洗面所に向かった。さっそく洗濯にかかるのだろう。その背中を見送ってから気付いた、洗濯をし料理を作るというのなら、明日の業者のほうをキャンセルしなくてはならないではないか。そのキャンセルの手続きが面倒だから洗濯も料理も必要ない、と言おうかと思ったが、男を止める、その際にまた長々と会話をしなければならない、のもまた面倒で、結局何もしなかった。

 自室に戻り、中断させられていた読書を再開していると、ドアがノックされる。放っておくとドアが開いた。男が顔をのぞかせた。

「あんた、金持ちなの?」

 ぶしつけな質問だ。この男の質問は、というよりは相手が誰であろうと自身に投げかけられるあらゆる質問はことごとく面倒で、無視してしまいたいところだったが、この男はおそらく、それなりに納得のゆく答えを得るまで黙りはしないだろう。

「食うのに困ってはいない」

「フラフラしてっけど、無職?」

「定職についてはいないという意味では、無職だ」

「あー分かった。AV嬢とか。最近は男のAV嬢もいるんだろー。売れっ子だと月に一本か二本出演すれば、百万ぐらいになるんだろ?」

「いかがわしい想像をするな。……株やFXや、仮想通貨、と言ったら理解できるか?」

 けれどこの男にとっては、いずれにせよいかがわしい収入源なのだろう。理解できなかったのかもしれない、ふうん、と男はどうでもよさそうに相槌をうった。

「じゃ、オレがここにいてメシ食ったりテレビ見たり風呂入ったりしても、あんたのお財布には大して影響ないわけね」

 もちろん何らの痛痒も感じないが、この男はどうしてそんなことを気にするのだろう。

「よくわかんねーもん、あんた。この部屋からしてさ」

 この部屋が何だというのだろう?

「ここたぶん、家賃すげーだろ? 駅直結のタワーマンションの三六階、こんなでっかくてピカピカの2LDK、あっ家賃言わないで聞くの怖い」

 男はおどけたように身ぶるいをし、

「けど部屋の中に入ったらさ、片付いてるってか、何もないって感じで。リビング、十二畳? もっとでかい? なんでこのでっかい部屋に二人掛けの安物ソファなんだよ。あのテレビも二〇インチとかじゃねーの? キッチンもでっかくてピカピカなのに、冷蔵庫の中身は作り置きか青汁ばっかだし。もしかしてここの家賃と家政婦さんのために、それ以外のもんギリギリまで削ってんのかなーとか」

 得心いった。なるほど、そう見えるのか。

「以前はもっと小さい部屋に住んでいた。引っ越すにあたって、不動産屋で希望の条件をあげたらここを紹介されたから、ここにした。家具や家電はだいたい、前に使っていたものをそのまま持ってきた。不都合なら買え換えるなり買い足すなりするつもりだったが、とくに不都合がないからそのままになっている」

「希望の条件って?」

「交通の便がいいこと、静かなこと、煩雑な近所づきあいがないこと」

 男は渋柿にかじりついたような顔をしてしばし唸っていたが、やがてけろりとした様子で、

「ま、あんたがいいなら、それでいいんでしょ」

 それよりも、とまだ話を続けようとするので辟易する。いつまで時間を割けばいいのだろう。

「人づきあい嫌いなんでしょ。なんでオレを家に入れてくれたの?」

「……気の迷いだ」

 なぜも何もなかった、と思う。あれは。血のにおいが強く鼻をついて、そんな匂いをかぎ取ったのはとても久しぶりだったから、思わず呼び止めてしまった。それだけだ。

「気の迷い、ね」男は苦笑すると、「んじゃ、なんで今もオレを置いてくれてんの?」

「どうでもいいからだ」ここにいようと、いまいと。自分の生活に何らの影響もない。

「どうでもいいって。オレが悪い奴だったらどーすんの。家荒らして逃げたり、悪い仲間引き込んで居すわったらとか、考えねーの?」

「そんなことは起こらない」

「あっれー。オレ、信用されちゃってる?」

 へらへらと笑う男に一瞥もくれない。この男の人間性が、倫理観がという問題ではなく、自分がそんなものを求めていないから起こさせない、というだけの話なのだが、男に理解してもらうつもりはなかった。黙っていた。

「ま、なんだっていいんだけどさ。そんなことしねーし。オレがいてあんた、迷惑じゃないんなら、しばらく置いてくんね? 行くとこなくってさ」

 やはりへらへらと笑っている。頼みごとをしているというよりは、甘えているような様子であり物言いだ。

「掃除洗濯炊事ぐらいはするからさ。んで、金できて行くとこのめどがついたら、すぐ出ていくし。ダメ?」

 女か。女性の家に泊めてほしい、居候させてほしい、と頼むときにこういう物言いをするのだろう、この男は。女を甘やかし、懐にもぐりこみ、やがて女に甘やかされる、そういうことを常習的にやってきた男なのだろう、これは。そういえば初めて会ったとき、これは複数の男に追われていたのだ。あれも女性がらみのいざこざだったのかもしれない。――だから? べつに、どうでもいい。この男の来歴がどうであろうと、この男が部屋にいようと。自分はこの男を懐に容れないからだ。

「……好きにしろ」

 やったー、ありがとー、と小躍りする男を尻目に読書に戻ろうとするとまた、声がかかる。何だ、まだ何があるというのだ。

「ごめんごめん、怒らないでー。大事な質問だからさ。あのね、あんたの名前、教えて」

 名前。

「そーよ。名前。まだ教えてもらってねーし。あ、エントランスの郵便受けに書いてあった名前は見たけど。えーと、南野」

「違う」

「え」

「それは――違う。オレの名前じゃない」

「……あー。ハイハイ。じゃ、なんて呼べばいーの?」

「……蔵馬だ」

「おっけー。蔵馬サン。よろしく。あのね、オレはねー浦飯幽助っての。ヘンな名前だろー、死んだら化けて出ちゃうぞー」

 どうでもいい。その名前もきっと、呼ぶことはない。


〈後略〉

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